「声を出す」
先日、能に関するこちらのイベント(事前講座)に参加してきました。それを受けてFacebookに書いた記事をベースに、こちらの方にも記録しておこうと思います。
メインの目的はこちらのレイボックホール小ホールでの、能の事前講座というのに参加することでした。
8月16日にここの大ホールで開催される能のための、販促兼ねたイベントだったわけですが、体験というのがどんなことをするのか楽しみだったのです。
羽衣の謡(うたい)の練習と一部実際に動いてみようという感じの体験でした。
誰か舞台の上に上がりませんかということで、4〜5人あがりましたが、僕もしっかり舞台上で経験させていただきました。(^^)
腹の底から声を出して、すり足で歩きながら、手の振りも教えてもらい、なかなかに良い経験でした。
シテの方の後ろについて動くことで、その気配というものを感じさせてもらえたのは大きかったなと思います。
実は30年ほど前に、短い期間でしたが仕舞いを習ったことがあり、その時の演目も羽衣だったので、とても不思議な感じでした。ほとんど忘れていたのに、どこかではしっかり覚えてるような気がするんですよね。
8月の公演で羽衣を舞われるシティの方が、仕舞いで、唄いながら舞われるのを見せていただきましたが、やはり声を出すことの凄みを感じました。舞台の上からしっかりと圧を感じ、始まった途端に場の空気が変わりました。
型が決まっている踊りだとは言え、やはりそれを演じるために、かなりの時間を費やされたのだということが伝わってきましたし、凛とした立ち姿はとても格好良かったです。
それと、もう一つ自分の中で蘇ってきたのは、バリの古典舞踏のガンブーのことです。ガンブーも台詞があり、また唄いながら踊る場面もあり、それらにまつわるいろんなことが思い出されました。
それにしても、日本の古典とバリの古典、なんでこんなに似てるのかとあらためて思いますね。
なにより「声を出す」ということは、とても能動的なことであると思いました。
それは自らの意志を発し、存在を宣言することでもあるから、場の空気が変化するのは当然と言えるでしょう。
考えてみれば、出せば入るということであり、そして問えば返答があるということかもしれません。
とすれば、声を出すということも「触れる」に通じるのかもしれないと思います。
声を出した後、その余韻を聴く時にそれは起こります。もしただ発するだけだとしたらうるさいだけでしょう。
原初舞踏の稽古の中で、オーム斉唱をする時に起こる循環と、それによって場と身体が整っていく感覚と似ているように思いました。
そこに「触れる」に通じるような回路があるからなのかもしれません。発すると聴くはまるでコウモリのようだとも思います。
声は外にも内にも響くから、見ることだけでは見えない空間を探知しようとしているのかも知れないと思います。
だから声を発し、その余韻を聴くことで、器官なき身体の空間がどんどんと開いていくのかもしれません。
花が外からも内からも見えるように、発せられた声はどちらの空間にも響き渡るのでしょう、
謡を聞いた時のゾクゾク感から、そんなことを思ったのでした。