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ヌーソロジーはゴジラだ!

さきほど、こちらの動画を見ました。

「2024年はどんな年、ゴジラとヌーソロジー」というタイトル以上に、「ヌーソロジーはゴジラだ!」というサムネの言葉が目に飛び込んできました。そして、このタイトル、激しく同意します。

昨年末にゴジラマイナスワンを映画館で見たときに、人間ドラマが余計だと思ったのを覚えています。シン・ゴジラの時もそうでしたが、ゴジラが町を破壊し、人間の文明を蹂躙していくところを、ずっと撮り続けた映画があったならば、そういうゴジラこそ見たいというのが、僕の感想であり本音でした。

ゴジラは物質を破壊して、精神へと返そうとする、衝動のようなモノの象徴なのかも知れません。だから手を封印し、垂直の方向にエネルギーを登らせるからこそ、その咆哮の果てにもたらされるのが、破壊であり、全き死であり、大反転なのだと思いました。

そのあたりのことはこちらで少し触れています。

プラスからマイナスへというのは、実から虚ということに通じますし、それは創造から破壊でもあり、生から死ということにもなります。ゴジラはすでに死んでいるから、決して死なないという半田さんの言葉にハッとさせられました。それはこの限定された時間空間の中での存在という訳ではなく、全く別概念であり、別のモノの到来なのです。

たしかにゴジラが生まれてきた背景には、破壊神こそが必要とされているということを集合無意識的な深いところでは皆が知っているからこそ、人間はゴジラを生み出し、讃えているとも言えるでしょう。

完全生物、究極生命体であるゴジラはゾーエーであり、死の生命力であるからこそ、ビオスとして、理性的に社会的に人間が生み出してきた文明を破壊する訳です。

それは本当の創造のために破壊するという意味があるのだろうと思います。人間が完全性質であるからこそ、行き着いた先には必ずゴジラが出てくることになっているのかも知れません。性質を極めることで、定質は発動してくるという事でもあるのでしょう。

このゴジラ現象は、2024年の年始めに能登半島の地震であったり、羽田空港での飛行機の衝突事故であったりと、具体的な現象としても起こってくるかも知れません。

しかし、本当の正真正銘の現場というのは、個人個人の持続空間という事であり、そこにどう向き合うのかということが、今年のテーマの核心部分なのだと思います。

昨日の最上さんの踊りを見ていて思ったこととして、一人一舞踏でありながら、一観客一舞踏でもあると書いたのは、一人一人が素粒子だということと関係していると思います。みなが個的な持続空間の中において、それぞれの魂を磨いているというイメージです。

人によって、テーマは違ってくると思いますが、ほったらかしにしておいても、ゴジラが来て向き合うことを要請してくるのが、今年なんだろうという気がしています。それならば、自ら進んで向き合っていく方が、きっと楽しく過ごせるのかも知れません。

そして、川瀬さんがおっしゃってるように、もしかしたら自分自身がゴジラと同じ方向性の視線を獲得することも可能な時代に入ったということなのかも知れないとも思います。

それは二つの光子(素粒子)が出会い、掛け合わされることとも言えるのかもしれません。そうなのであれば、E=mc^2というアインシュタインの方程式の中に、なぜ光速度×光速度が入っているのかということの意味なんかも見えてくるのではないかと密かに楽しみにしていたりします。

そういうことを現場としての持続空間を通して、素粒子として、今年は探検していきたいわけです。そういうことも踊ることのモチベーションであると言えるでしょう。

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