頑張んなくていい
「もっと頑張らなくちゃー!」とその人の前で私は自分に気合を入れようとするたびに、その人は私に「頑張んなくていいよー」と言っていた。でもその人は、恐らく私以外の人から見たって、誰よりも頑張ってるように見えるし、実際に結果を出して生きているように見えた。実際そうだったと思う。
だから、そういう人になるために、周りからそう見られるように、もっともっと私は頑張らなくちゃ。だってあなたは頑張ってたから、少なくともこの私に「素敵!本当に素晴らしい!憧れ!!」という感情を抱かせたわけでしょ?だったら、誰かに”憧れ”て貰えるように、あなたが私の憧れであったように、私も「頑張んなきゃ」。いつもそう思ってた。
でもその人はまるで口癖のように言う。
「頑張んなくていいよ」
いろんなことをやっている人だった。毎日毎日。私も今は仕事と学校の勉強と、モノづくり、それ以外の趣味に毎日毎日バタバタと生きていて、やりたいことどころか、やらなくちゃいけないこともたくさんあって、どこから手を付けようか考えながら適当に適度に手を抜いて要領よくこなして毎日を過ごしている。しかも年を重ねるごとに、特に仕事じゃ手を抜くことができない案件も多くなってきて、時々疲れてみたり。
そんな時にふと思い出すのが「頑張んなくていいよ」という言葉。
そして、私の上司がいつも言っていたその言葉とは真逆な「仕事も遊びも全力!!」的な激熱ワード。でも、人間の持ってるパワーをMAX100だとすると、仕事=100、遊び=100っていう配分にはならないよね?人によっては仕事80/遊び20の人もいるだろうし、仕事30/遊び70という割合で体力や気力やお金を配分している人もいるだろう。仕事+遊び(プライベート)が100を超えて120や200なんて数値になることはないわけだから(100超えた段階で倒れるのだと思っている)みんなはその100の数字の中で、うまく割り振りをしながら生きているわけだよね。
私は「仕事も遊びも半々」
今はこれがしっくりとくる言い方。私の全体が100だとしたら、内訳は仕事50/遊び(プライベート)50。どっちも100のパパワーで!なんてことはありえなくて、逆に仕事30/遊び50みたいに、合計が100を切る、ということも考えられない。
でも周りを見てると、本当は100のパワーしか容量がないのに、それを超えて頑張ろうとする人が多いよね。100の力でできることって本当は限られているはずなのに、寝る時間を削って何かをしたり、プライベートの時間を削って仕事をしたり、またその逆も然りで。本当はそんなに頑張らなくてもバランスとって上手に生きていくことができるはずなのに、周りの「頑張ってる」ように見える人たちと自分とを比べて「もっと頑張らなくちゃ!」って思いこんでしまう。
ねえねえ、教えて。
私は仕事50/プライベート50の中身、余らせることなくフルに使ってるよ。だけど仕事80/プライベート80なんて生き方は長持ちしない。でも世の中はどっちも100の力で頑張ってる風に見えるのが格好いいんだよね?昔々の私が誰かに対して憧れていたように。
ねえ、あなたも、私と同じように100の余力があるはずなの。でもあなたの持つ100と、私の持つ100は、たぶん最小単位1の大きさが違う。ピンポン玉100個とバレーボール100個の容量を比べたら、同じ100でもサイズが違うってこと。だから私の中の”仕事50”の力は、あなたの”仕事80”と同じ大きさかもしれないし、逆にあなたから見たら私の”仕事50”の力はあなたの”仕事3”と同じレベルなのかもしれない。
でも、そうやって考えながらも、もしかしたら私も他の人の事を無意識にそういう目で見ていたのかもしれないよね。例えば仕事の部下に、テレビで見かけた見知らぬ誰かに。口には出さないけれど「もっとこうしたら今よりもきっともっとできるじゃん、どうしてやんないんだろ、どうしてもうちょっと頑張んないんだろ」なんてね。その人の100の力、その中でみんな上手にやりくりをしてバランスをとっているのに。
だから、「頑張んなくていい」んだね。
ついでに言えば、「頑張って!」なんて声かけなくてもいいし、かけられなくてもいい。さらに言えば、「頑張ったね!」「頑張ってるね!」という声かけも不要。(励ましはありがたいけど)だって人それぞれ、自分の中の100の力を、バランスを見ながらうまく配分して、その中で精いっぱいのことをやってるんだから。
でも私は周りに「頑張ってる」ように見せるのが上手です。うふふ。