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死への恐怖について考えてみた。
人は、いつか死ぬ。人だけでなく、飼っている猫だって死ぬし、昨日買って花瓶に挿した綺麗な花もいつかは枯れる。
そのタイミングをできるだけ遅らせるために、ヒトは定期的に健康診断に行き、からだに良いと言われるものを食べ、キャットフードも厳選し、花瓶の水を新鮮に保つ。
それは当然だと思っていたし、人類の多くもきっと、そのように考えているのではないかと思う。
ところが、である。
2025年の秋から冬にかけて、「死というものはありえない」という大きな気づきが私に訪れた。
肉体にとっての「死」の定義とは、
・呼吸や心拍が止まって、生命活動の継続が確認できなくなること
と、ウィキペディアに書いてあった。
何かが止まって動かなくなるのだとしたら、それは永遠ではない。
形が変わって衰えたり消えたりするのだとしたら、それは永遠ではない。
だとすると、「死」は「永遠の存在」である神の性質とは真っ向から対立することになる。
神の性質にそぐわないとすれば、「死」は神が創ったものではない、ということになる。
では、「死」は何が創ったのか?
世間では「エゴ」と呼ばれている、私たちの「愚か者」としての一面である。
「エゴ」とは何か?「愚か者」とはだれか? については長くなるので別の機会に書くとして、死は「愚か者」によって創られたのだと仮定すると、この世界で起きているあらゆる物事の辻褄があうことに気づく。
「愚か者」は、「死」というイメージを私たちの内に植え付けようと企み、私たちの多くはその企みにハマってしまった。
死とは、消えてなくなることである。死ぬと、一人ぼっちになってしまう。死には、痛みが伴うものである。
その恐怖に耐えられなくなり、人類の行動の主な目的は「死なないこと」となっていった。
「死なない」ために、一生懸命勉強して安定した職に就き、「死なない」ために辛い仕事や人間関係にも耐える。
「死なない」ために病院を作って薬を飲み、自分たちを守るための法律や組織を作る。
「死なない」ために仲間を作り、生き延びるためのあらゆる行動を一緒に行う。
人類のこのような行動は、これまでのところ「愚か者」を大いに喜ばせているようだ。
なぜなら、死が単なるイメージだと人類が気づいてしまったら、この幻想の世界にしか存在できない「愚か者」は、居場所がなくなってしまうから。
「愚か者」は自分の居場所をできるだけ広げ、できるだけ長くそこに留まるために、「死」のイメージを見せ続ける。
私たちはいつまで、死への恐怖におののきながら生きるだろう?
もしも「死は単なるイメージだ」と心の底から理解できたら、私たちの明日からの行動はどのように変わるだろうか?
「死」をどのようにとらえるかの選択は、いまこの瞬間にもできること。
永遠の、愛と喜びに溢れる存在として生きることを選ぶか、死への恐怖におののきながら耐える人生を生きることを選ぶか、すべては自分次第、ってことかな!