観劇覚書:少女都市からの呼び声
※すごい前の観劇覚書で申し訳ございません。執筆に時間がかかりました…💦
2023年7月@THEATER MILANO-Za
【登場人物・キャスト】
田口:この物語の主人公<安田章大さん>
雪子:田口の妹(となっている)<咲妃みゆさん>
有沢:田口の親友<細川岳さん>
ビンコ:有沢の婚約者<小野ゆり子さん>
フランケ醜態博士:雪子の婚約者<三宅弘城さん>
老人A:オテナの塔を目指す謎の老人(田中君)<肥後克広さん>
老人B:オテナの塔を目指す謎の老人<六平直政さん>
隊長:フランケ二等兵の上官<風間杜夫さん/金守珍さん>
○現実と虚構(この物語の世界)
観劇するうえで「これ、どこまでが現実ですか?」とか、「誰と誰がどういう関係ですか?」とかは考えない方がいいと思っています。事実として描かれているのは、田口が重病人で手術中であること、親友の有沢とその婚約者のビンコが駆けつけて病院の廊下にいることだけだと思います。
なので、「雪子さんは田口の妹なんですよね?生まれてこれなかった双子ですか?」と思うも自由ですが、”そういう事実”で描かれているわけではないので、杓子定規的に思い込まない方が世界観を楽しめると思います。ちなみに、私的には”誰のなかにも雪子さんがいる”という解釈が好きなので、そう思って観ています。
重病人が黄泉の国へ行きかけて、そこで別の世界を見てくるというストーリーは、唐十郎さんの世界ではよく出てきます。私が初めて観た「さすらいのジェニー」でも、冒頭は主人公が手術中でお腹から髪の毛が生えてるという状況から始まり、意識が混濁する中で見た猫のジェニーとデンプシーの物語が描かれていますので、少女都市も同プロットなんでしょう(ジェニーよりこっちが先に書かれていたような気もしますので)。
つまり、少女都市からの呼び声は、田口が病床での死の淵にいるところで、別世界にいって妹(らしき)雪子に逢い、何とか雪子とこの世へ戻ろうと獅子奮迅・孤軍奮闘して戻ってくるというのが大きな流れです(すごいさっくりだけど)。
だから、雪子さんも、フランケ醜態博士も、隊長も、子宮虫ちゃんたちもこの世のものではなく、今では実態を持たないもの(幻想、亡者etc)だと思います。老人AとBは後述しますが、現実半分、あっちの世界半分といったところかな。反対に言えば、田口、有沢、ビンコさんが現実を生きている人物(田口は半分死にかけているけど)ですね。
○田口、雪子に逢いに行く。
病床で手術中の田口(お腹から髪の毛が生えてる)は、肉体は病院のまま、意識のうえではあの世に行って、妹の雪子を探しにいきます。大正琴の音楽隊のところで「何かおくれ」と言われて貨幣を入れていますので、三途の川の渡し賃を払ったのかもしれません。そこで三途の川の住人・亡者の皆さんから「雪子に逢いたいならあの塔へいってごらん」と促されます。”あの塔”とはオテナの塔のことでしょう。
そこで無事に(?)雪子と再会できますが、忘れちゃいけないですよ、雪子さんは現実の妹っていうわけではなく、誰の中にもいる妹的な存在なわけです。雪子は「お久しぶりでございます」と言っているので、"再会"と表現するのが正確でしょうが、じゃぁいつまで田口と雪子は一緒だったのか?という疑問が沸きます。現実的かつ論理的に考えるなら、「幼少期を一緒に過ごし、働きに行くようになって会わなくなった兄妹」ということになりますが、私的にはあんまり面白くない解釈です(笑)。さらに、雪子が「兄さんのそういうところ(会社のお金を横領した疑惑)で私たち家族がどれだけ困ったか」みたいなことを言っていますが、田口は両親はなく身寄りもないという設定なので、些か矛盾が生じます。
いきなりですが、幼少期に独り言をいって、そこには誰もいないのに、誰かと対話していた経験ってないですか?(なかったらすみません。私は現在進行形で結構ありますw)雪子はそういった”もう一人の自分”の幻想なんじゃないかなと思っています。今回の先行映像・画像でも安田さんと咲妃みゆさんはメイクで似せていますよね。しかも、安田さんも長髪のまま舞台に臨まれていて、二人は男女という違い以外では似せて作っていて、これはわざわざの演出だと思っています。(雪子が現実世界に出てくる際に、田口は「女の田口として生きるんだ」と言っていますので、それがしっくり来る気がしますね。)
○フランケ醜態博士はあの世の主なのか。
雪子が住んでいるのは、オテナの塔でしょう。雪子は”町と工場”という用語を使って現状を説明していますが、実際に町があって工場があるどっかの田舎町と考えてもいいですけど、それはかなり現実的な考えなので、やめときましょう(笑)。雪子にとっての"町"であり、"工場"なので、雪子の世界のものです。雪子はオテナの塔内に居るので、そこが狭いんだか広大なんだかは知りませんが、その世界の中で展開されていると思いたいです。
雪子の住む世界を牛耳っているのがフランケ醜態博士。工場の主任さんです。もうネーミングが遊んじゃっている時点でこの世の人ではありませんね(フランケンシュタイン&醜態&博士の最強トリプルコンボw)。謎の助手と子宮虫、三途の川の住人達を従えてはいますが、だいぶニッチな世界の主です。それでも、魚拓の屏風も描いちゃうし(金屏風にフランケ醜態博士の押印がありましたよね)、鮫の頭だってエレガントに食べちゃう(あれを優雅というかは微妙なれど、謎の儀式的に食事していますよね)、ちょっとした文化人です(あの世界では)。
その世界の主を気取っているフランケ醜態博士ですが、彼のバックグランドは上官との想い出の回想シーン(眠っている間の夢)で描かれています。博士が夢に見たのは、戦時中、しかも日本の敗戦が色濃くなった時分でしょう。同じ軍隊の仲間と上官が現れ、クランケ二等兵に内地へ帰れと言います。クランケさん、二等兵ということは最も下っ端だったんですね(♪大将となるにも初めは二等兵♪と映美くららちゃんが歌ってましたよね)。でもって、喘息持ちだった模様。きっと、そんなこんなで最後まで隊とは一緒に作戦を遂行できず、満州に残ったか、なんとか日本へ帰国した復員兵だったのでしょう。無念な気持ち、不甲斐ない自分が生み出した結晶がフランケ醜態博士。"醜態"は変態じゃなくて、そんな自分の醜い有り様からのネーミングであったなら、切ないですね。
さて、フランケ醜態博士は、雪子を妻と呼んでいますが、雪子いわく「必要だ、必要とされている、必要としなくならないで」の関係、男女を超越したパートナー(ビジネスパートナーよりは男女な感じ)でしょうかね。女性自身に出てくる男女の情念といった感じはありません(笑)。それならば、フランケ醜態博士が言う「俺は雪子と満州で結婚したんだ」は何なのか。物理的な”結婚”ではなく、雪子と契約したという感じで私は受け取っています。さらに、雪子=オテナの塔と考えれば、フランケ醜態博士は自ら進み出て、オテナの塔に囚われたともいえるのではないでしょうか。上官たちと決行できなかったオテナの塔大作戦が歪んだ形で成就したのが、”フランケ醜態博士と雪子の結婚”だったのかもしれません。
○老人Aと老人Bの閑話劇と見せかけてのストーリーテラー
肥後さんと六平さんの寸劇、笑えて和むわ~と思って観ていて良いと思います(私もそうでしたよ)。でも、よくよく考えてみると、2度にわたって挟まれる老人Aと老人Bのショートコント。あれは、少女都市の説明であり、この物語の核を語っていて、さらには1度目と2度目では時間が経過しているのではないかと思っています。お二人は、ハムレットの墓堀りのような役回りですね。
1度目の登場では、老人Aが自分の善行(某町の火災をボヤで止めて消防署から表彰された件)の象徴である表彰状や愛人・アリサの写真を頭陀袋に入れており、その話とツッコミが展開されています。たぶん、老人Aは今風に言う終活中ですかね。つまり、老人Aも老人Bも別世界(あの世)からのお迎えを待っている段階・存在です。「なんてじめじめした日なんだ」を繰り返し、その日その日を生きながらも、別世界行きが近くなってきて、それを待っている、そんな老人たちです。
2度目の登場では、老人Aは老人Bの存在を忘れかけています。「あんたとは昨日、きっぱり縁を切ったんだ」的な台詞がありますので、きっと昨日今生に別れを告げたのでしょう(南無阿弥陀仏)。名前を呼ばれて、お互いの存在を認識し(老人Bは覚えてそうだけど)、二人でオテナの塔を目指します。老人Bが羨望と感嘆の声で「うわ~でっけぇなぁ」と言っていますので(※恐怖・畏怖の声でなく、感激しているような声・演技と受け止めたので、私はそう解釈しています)、遂に俺等もオテナの塔に行くんだぜぃ!くらいの感じですかね。
つまり、2回の登場によって、時間の経過(生前・死後)と時空の変化(こっちの世界とあっちの世界)が演じられており、人はこうやって生きては次の世界に行くんだということが描かれています。しかし、こちらの世界も暑くてじめじめですが、どうやら別の世界もジメジメしているんですかね(笑)、それとも老人たちの口癖が「なんてじめじめした日なんだ」なんですかね。
○雪子とオテナの塔(永遠の少女、ガラスの女中さん)
最初にお書きしておきますが、私は咲妃みゆさんのファンです。ゆうみちゃんが唐十郎のお芝居に出演する、しかも、ガラスの体を持つ雪子さん!と聞いて、家で本当に小躍りした私です。本当に可愛くて、声が素敵すぎて、コケティッシュで可憐で、少女で女性で、儚くて強くて…。そんな矛盾だらけの氷いちごを作るお姫様・雪子さんでしたね。
さて、雪子は何なのか、そもそも存在しているのか。現実の女じゃ全くありませんから、雪子は誰もが抱く少女の幻想でしょう。しかし、フランケ醜態博士の奥さんだし、田口の妹でもあり、一緒に暮らして女中さんをするそうですから、女の面影も十分に持っています。最強・美少女ってところでしょうか(笑)
アングラ芝居では、永遠の少女がヒロインになりやすいですね。「ライチ☆光クラブ」のヒロイン・カノンも永遠の少女(でいたい女の子)でしたし、唐十郎作品にも少女的ヒロインはたくさん出てきます。現実世界では叶わないことだからこそ、人は夢を見るのかもしれません。現代でこそ、妊娠・出産はコントロールできるものとなり、女性の生き方が尊重されますが、それでも私たち女性は、”女性”の特性に悩まされ・付き合いながら生きています。でも、”少女”だったあの頃には、そんな女としての悩みはなく、真っ白に透明に、純粋に走り回っていた気がします。一方で、かぐや姫のように、無邪気に周りを振り回すコケティッシュさを持っている、それが”少女”なんでしょう。純粋・無垢でありながら官能的、そんな矛盾をすべて包括した幻想・雪子。どこか丁寧でありながら古風な口調(「よくお越しになられましたね」「ご無沙汰しております」など)で話す彼女は、時に俗世の言語(例えとか)を理解せず、愛についても無知であり、女であり少女。ガラスの子宮・肉体を手に入れて、永遠に少女でいることができる鉄壁の少女・雪子になります。※余談ですが、私は雪子さんの「こ・き・く・くる・くれ・こよ」カ行変格活用の大ファンです(照)。
雪子の対比的存在がクランケ醜態博士の下で働く子宮虫たち。彼女たちは戦時中に女として、母として生きた怨念みたいなものかな?なかには望まない妊娠に思うこともあったのかもしれません。でも、雪子にはこうした悩みはありません、永遠の少女ですから。
雪子は、クランケ醜態博士に与えられた(と本人は思っている)場所にいます。どうやらそこから出ることはできず、博士の実験室と田口を待っていた部屋だけが彼女の世界のようです。しかし、雪子は幽閉されているわけではなく、クランケ醜態博士に「私怖くなっちゃったの。あんたとはもう別れる」とかあっさり言えちゃうし、それに対して醜態くんは慌てふためくわけで、雪子はこの世界(田口の元居た世界に対する別世界)の女王様ですね。私は、雪子そのものがオテナの塔であり、人は三途の川を渡ってオテナの塔を目指し、そこで再び生まれることで次の輪廻を生きていくというメッセージだと思っています。
雪子はガラスのvaginaを持ち、普通の女性のように子を孕むことはできないけれど、フランケ醜態博士は立派に孕むと宣言します。いったい何を宿すのか、開幕冒頭で近未来の医師たちが研究している生殖器官を持たずに論理的に生殖機能を有する生命体、それは雪子のガラスの体なのかもしれないですね。
しかし、少女、女、妹、女王…といった女性のあらゆる形態を統べているそんなヒロインを生み出すとはすごいですね。また、これを体現する歴代・雪子を演じた女優さんたちもすごいです。そして、咲妃みゆさんはすごかった(これはまた別に書くこととします)。
○オテナの塔問題
何なんだろう、オテナの塔って。公演プログラムでは小さく注記でNHKラジオドラマシリーズの1つで、そこから唐十郎さんが着想を得て、劇中に出したんだとか。私も未知のオテナの塔ですが、私の母は知っていました。どうやら戦後間もなくNHKラジオで少年少女向きの初の番組として「新諸国物語」というシリーズが毎日15分放送されたそうです(今の青春アドベンチャーみたいな感じで、夕方に放送されてたんだとか)。母は3人兄妹の末っ子で皆で毎日楽しみにラジオを聴いていたんだとか。笛吹童子とか、紅孔雀とかも新諸国物語の1つのお話だとか。後に映画化されて大ヒットもしたそうですが、もとはラジオドラマだったんですね。また、子供向け番組とはいえ、制作者たちは文学的素養を多く含んだ作品とし、冒険活劇でありながら、見果てぬ夢だったり結構観念的な要素が多い作品もあったようです。
※私が色々言っても何なので、wikipediaを読んでみてください。
オテナの塔は、アイヌを舞台にした冒険活劇らしく、蝦夷のどこか(オテナの地)にあるアイヌ民族の秘宝が眠る塔、それがオテナの塔だとか。少女都市においては、先述のように人々が別世界で目指すものであり、そこで命が再生する場所の象徴となっています。
オテナの塔について、劇中にはあまり描写がないですが、とても大きいこと(老人Bの台詞より)、島に1つの塔があって乙女の城と呼ばれていること(歌の歌詞から)がわかります。また、劇中歌には、黒き荒磯・紅孔雀…とあり、これらは新諸国物語のシリーズに紅孔雀があるので、そこからキーワード的に拾ってきたものと思います(黒き荒磯は日本海かな?)。
この作品において、雪子=オテナの塔=命の再生場所(母の子宮)として描かれており、雪子がガラスの子宮で立派に孕むもの、それは人の一生なんじゃないでしょうか。そう思って観ると、ラストシーンの”子宮の涙(ガラス玉)”が滝のようにあふれ出てくるなか、オテナの塔の中空を漂い、その主である雪子が「兄さん」と田口を呼んでいる意味が見えてくる気がします。
○無い世界の有沢
田口は雪子をあちらの世界から連れ出そうと、フランケ醜態博士のもとに忍び込みます。この時、フランケ二等兵の上官に扮して軍服姿で登場するので、カッコいいですよね。でもって、安田さんverの田口はここで一節歌ってくれますね。カッコいいポイントです(母曰く、あれは根津甚八が状況劇場で歌ったものだとか)。
さて、そんなカッコいい田口が助けにきたのですが、雪子は自分の失った指を代償に差し出さなければここから出れないと田口に指をくれと要求します。もう可愛いコケティッシュな雪子を通り越して、相手から吸い取る女の性を見せる狂気の場面に入っていきますね。咲妃みゆさんフィーバーの私としては、「待ってましたっ!ゆうみちゃん!」な場面です。指を切り落とすために、ウィスキーを一気飲みして、出刃包丁を構えておきながら、「いきますわよっ!」って何なんですか(可愛い1)。痛みに悶える田口を他所に「あら、また虫がっ。このっ」と虫退治に勤しむ雪子(可愛い2)。自分がガラスの身体になったがために、生きて呼吸する物が許せない雪子の描写は奥深いのですが、そんなことはさておき、天真爛漫な雪子が可愛いくて、田口が程よくジャブをいれるので、このグロッキーな場面も浮世離れしていて、成り立つところがすごい。
そこから二人は兄妹ですが、男女であり、主従であり、複雑な立ち位置が展開されます。でもこれを、やれ近親相関だとか、禁忌だとか、それだけで片付けるのは面白くありません。すべては矛盾しながらも相俟って成立するこの世の理みたいなもの。少女都市では、2つの世界(此の方、彼の方)が頻出していますが、田口と雪子、田口と有沢、ビンコと雪子…みんな何かの対比のように思えます。
雪子の可愛さがだいぶ長くなってしまいましたが、田口と雪子の兄妹(兄さんとガラスの女中さん)は無事に代償を支払い、彼方の世界から此方の世界へと行くことになります。その時に、田口が「無い世界さ」と絶叫するのですが、この台詞が素敵すぎる。此方の世界は、ある種の現実世界ですがそれを「無い世界」と表現するところ、流石は唐十郎様です。さらに、その「無い世界」で待っていてくれているのが「有沢」なわけで、この「有無」の対比もたまらない言葉遊びです。何が有って、何が無いのか…ある人は「偽り」と考えるかもしれませんし、別の人は「生命」と考えたり、「心」と感じたりするかもしれません。それを押し付けないのが演劇の良いところではないでしょうか。
○ビンコと雪子
この物語において、女性はこのお二人だけに近いと思います(看護師さん、研究所の妖精たちもいるけど)。雪子が「可愛い」に対して、ビンコは「綺麗」なタイプ。雪子が「あどけないコケティッシュさ」に対して、ビンコは「大人で実は耐え忍ぶ女」。とにかく対照的な女性像で描かれており、演じるお二人もそれを見事に体現していると思います。私は雪子にノックアウトされていますので(笑)、個人的好みでいえば圧倒的に雪子ですが、有沢と田口の友情を超えた友情を前にして、婚約者としての意地で振舞うビンコさんは健気で泣けます(有沢とビンコがいるところに、いつも田口も居たのだとしたら、なんだか不憫です…こたつの脚の件ではそんな気さえしました)。
でもって、もう一つの大事な要素が、ビンコと雪子がラムネのビンとラムネ玉の関係であるということ。クランケ醜態博士の研究所でもラムネのビンが出てきましたし、そこに入っているビー玉を集めて雪子のガラスの体を製造していましたね。此方の世界にやってきた雪子が渡世人の弟分よろしく有沢に挨拶する際にも、自分はラムネのビー玉のような存在と語っています。ビンコがラムネ瓶を鳴らすことで、雪子は此方の世界に居られなくなり、田口の中へと回収されていきます(演出上は田口のベッドの下のカーテン内に消えていく)。すなわち、ビー玉が無事にラムネ瓶に回収されて、元の形に戻ったとも言えます。そう考えると、元からビンコさんの方が雪子の外側に居る大きな存在なのかもしれません。
雪子は、少女都市の少女であり、オテナの塔の乙女です。すなわち、現実世界には生きていません。三途の川で田口が妹の雪子を探している冒頭の場面でも、出逢う人々が「●丁目の雪子かい?」「貸本屋の雪子かい?」とそれぞれの雪子を挙げますが、これが象徴するように雪子は誰にとっても妹であり、再生を可能とする母なる存在なのです。
一方、ビンコは生きている生身の女性です。有沢という男性を想い、時に有沢の親友さえも疎むような嫉妬をする人間です。この二人の闘い(後ろは日本海!のところ)、どっちが勝ったのかなんてある意味、無意味です。まぁ、上述のようにラムネ瓶に入るべきビー玉の関係からすれば、最初っからビンコの勝利ですし、反対にこの世にはいない理想の少女・雪子の存在に鑑みれば勝敗云々ではないことも言えます。
○田口はどこへ行くのか。
田口は一度、病院で目を覚まし、有沢とビンコと話をします。その時には、雪子の存在や少女都市(彼方の世界)のことは夢で見たようなもので、ほぼ忘れています。だからこそ、田口の背後で実体ではない雪子が「(指を)くれたのよ!」と叫びます(が、もちろん田口には聞こえていません)。雪子が彼方の世界(彼の世)の象徴だとするならば、田口は生還したと言える場面のように思います。
ところが、エンディングで田口は脇腹を押さえながら、雪子の名前を呼んで、雪子を探しに行きます(客席を通っていくところですね)。でもって、オテナの塔の歌が流れ、塔の中空に据えられた雪子が「兄さん」を呼ぶ名場面になるわけです(ここのゆうみちゃんの「兄さーーーーん」が絶品すぎる…涙)。そして、無数のビー玉が子宮の涙として溢れ出す演出はさすがテント芝居だ!と歓喜してしまいました。きっと、野外テントでの上演だったら、後ろがバァーンと開いて、外の世界(現実)とテント内の世界(虚構)が繋がって壮大な世界が見られるんじゃないかな…。あぁー紅テントで少女都市がかかったら観たいなぁ!
あれ?ということは、田口はオテナの塔を目指して彼方の世界に行ってしまうってこと?雪子に呼ばれちゃって、その声が聞こえてしまっているということ?ということは…。全てを具体的に描いていない訳ですから、これ以上の詮索と文字化はやめておきますが、田口は少女都市に向かって、誰もが見果てぬ夢と探しあぐねるオテナの塔を探すのでしょう。
田口は永遠の妹・雪子に再び会えたのかな、でもそれは此の世界とのお別れなのかな、人はいつか雪子に呼ばれてオテナの塔を目指すのかな、そしていつか輪廻転生を繰り返すのかな…。そんな幻想を抱きました。