姉崎論その1
人は姉崎かそれ以外かに大きく二分出来る。何が、姉崎を姉崎たらしめるのかについてこのnoteでは論じていきたい。このnoteを読んで、読者諸君には姉崎になってもらいたい。
姉崎と名乗れば姉崎になれるのか
答えは勿論Noである。
例えば、佐藤という苗字の二人がいたとする。一人はうるさい奴で、もう一人は静かな奴だとする。うるさい方の佐藤の知り合いは佐藤と聞けば、うるさい奴を連想するだろうし、その逆もまた然りである。つまり、名前というのはただの呼び名であり、その呼び名に対して思い浮かべるイメージがあって始めて意味を持つ。
従って、姉崎でない人が姉崎を名乗ろうと、それは別の姉崎になってしまうということだ。姉崎論で指す"姉崎"とは私のことを指す言葉であり、"姉崎"に付随するイメージも私を指す物に他ならない。
つまり、姉崎という呼び名だけでは、"姉崎"為り得ないのである。
では、姉崎のように振る舞えば、姉崎なのか
名前でないならば、姉崎の行動自体が姉崎なのか。
これの答えは、部分的にはYesであるが、一旦、Noと言っておく。
姉崎のように振る舞うということは、これまでの姉崎に対して持つイメージを基にどの様に振る舞うかを学習もしくは、予測する事によってなされるのだが、実際にこれらの学習、予測がうまくいったとしても、今の姉崎を表現しているに過ぎない。姉崎は遠い過去から果てしない未来まで続いていく。今の姉崎を演じれるからと言って、姉崎そのものにはなれないのだ。
しかしながら、完全に今の姉崎に擬態できるのであれば、今この瞬間の外から見たあなたは姉崎ということになるだろう。従って、非常に局所的ではあるが、部分的には正解と言えるであろう。
そして、重要なのが行動を真似するというのは演じていることに他ならないという事だ。
無論、人の思考は読めない。従って、行動が全てである。しかしながら、常に予測した行動が正しいとは限らない。だからこそ、なぜその行動に至ったかを知ることなく姉崎にはなれないのだ。
では、結局何が姉崎なのか
姉崎発生時から、世界を姉崎として観測する事のみによって得られる経験と思考である。そして、その思考に従って行動し、姉崎のこれからを紡ぎ創造していくのである。従って、姉崎の書くnoteだけを読み、姉崎の一部を知るだけでは、姉崎になる事は不可能である。また、経験は常に増え続け、思考は研ぎ澄まされていく。
姉崎為るには、過去に遡って、現在までの姉崎を追体験する事が必要不可欠である。しかし、これだけでは十分ではない。姉崎が姉崎になる前と同じ状態から、追体験する必要がある。つまり、厳密には姉崎以外は姉崎でないということになる。
読者諸君が今できること
姉崎になるべく、姉崎論を読んでいる読者諸君は失望したかもしれない。しかし、姉崎が唯一姉崎であるのは、現在の定義に依るものである。
従って、読者諸君らが姉崎にたゆまぬ努力により漸近し、姉崎と姉崎以外の境界が曖昧になり、姉崎の定義が不明瞭になれば、姉崎に包含される対象は増えると言える。つまり、姉崎に近づこうとする志が諸君らを将来的には姉崎たらしめるのである。
諸君らが今できることは姉崎の発信する物(執筆時点ではnoteのみ)全てに触れ、暗記し、理解し、これまでの姉崎を予測し、その予測に基づき更に、姉崎の未来を予測する事だ。
Exercise1
1) 自分の最も姉崎に近い部分はどこか。
2) 自分の最も姉崎から遠い部分はどこか。
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