『愛と勇気だけが友達さ』(日向子)

アンパンマンマーチの歌詞読みなおした、きのう初めて気づいたんだけれど、アンパンマンは真の孤独なんだ。ほんとに愛と勇気だけが友達で、どれほど胸の傷がいたんでも愛と勇気のために生きてるんだ。へんに友だちを作ると愛と勇気を守れなくなってしまうから。 

アニメの内容はそこまで覚えてないんだけれど、たぶん、アンパンマンが誰かを悲しませないに自分の顔を分けてあげたり、悪いことをするやつを殴ったりする、そんなアニメだったはず。
アンパンマンがどんなキャラクターかと問われたら、アンパンマンは優しくて、明るいキャラクターだと、よく知らない人も答えるだろう。
でも、アンパンマンマーチの歌詞にでてくるアンパンマンは生きる意味と探し、胸の傷を痛ませながら、みんなのために、涙をこらえ空を飛ぶ。
小さい頃、同級生らによってアンパンマンはよく「愛ちゃんと勇気くんしか友達がいない」などと揶揄されていたが、今思えばあながち間違いでもない気がする。信じたいものが多ければ多いほど、守れるものが少なくなる。

今回は、「信じる」をテーマになにがしかを書こうということであったが、そこではじめて、自分が「信じる」という言葉に馴染みがないことに気がついた。疑い深い訳では無いし、誰のことも信頼していないわけではない。むしろ私は誰のことも疑わないたちで、人の言葉を言葉通り受け取り、たまには冗談が通じないな、とまで言われるたちの人間である。のに、わたしは「信じる」という言葉に親しんでいなかった。そもそも信じるとはなにか。
辞書をひけばだれかが信じた答えが出てくるだろうけれども、いったん考えてみたい。
ドイツ語のglaubenは信じる、とも思う、とも訳される。神様を信じる、というときにもglaubenだし、わたしはこう思っているんだよ、なんて話すときにもglauben。つまり、なにか頭に思い浮かんでいることが、何かの事象の状態と=で結ばれているとき、glaubenというのかもしれない。神様がいるということ、そのことを私は頭の中でも思っている。りんごがそこにある、ということを、わたしは頭の中でも、思っている。その時glaubenが使われるのかもしれない。今度、ドイツ人の先生にも聞いてみたい。日本語の信じるは、どうだろうか。
私個人の感覚ではあるが、何かを信じるというとき、つねに何かを疑うということがどうしてもついて回る。私があなたを信じるというとき、わたしはほかの誰かを軽んじている。私が私を信じるというとき、私が敵視するのは私ではない、あるいは私を信じない全員である。何かを信じるとき、何もかもを信じるということは物理的に出来ない。何もかもは信じられない。信じるということには、唯一性がある。何かに加担して、それに全てを捧げてしまうような危うさがある。しかしその危うさはかなり不安定で、すぐにゆらぐ、安らかな危うさである。
唯一、アンパンマンが信じたのが愛と勇気なら、それを信じた分ほかを捨てても、その分の愛と勇気を救うことができるだろう。

あなたの唯一は、なんですか

この記事は5月テーマ『信じる』によって書かれたものです





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