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母と過ごす時間

月に一度、わたしの実家に夫と二人で、一人暮らしの母の顔を見に帰る。

お昼は途中のスーパーでお弁当を買って帰る。
田舎だからスーパーのお弁当も珍しくて、母は喜んで食べてくれる。
お弁当を買って帰ることがわかっているのに、母はいつも、副菜とお汁物を用意して待っている。
今日は、ふきの煮たの、わらびの卵とじ、そしてわたしの大好きなタコを茹でたもの。
生きているタコを買ってきて、下ごしらえをして茹でてあるのでとてもおいしい。
わたしはタコは好きだが、下ごしらえが苦手なので、母はそれを知っていてよくタコを用意してくれている。

それから、カルディのドリップバッグでコーヒーを淹れて甘いものといただく。

おしゃべりな母は、ずっとしゃべっている。最近のこと、近所の噂話、ずっと前のことなど。いろいろ。
同じことを何度も話すこともあるけど、わたしも夫もうんうんと聞いている。

今日は、母の愛車のシニアカーの話になって、庭に出て運転の仕方を見せてもらったりした。
そのうち、夫が自分も運転してみたいと言って試乗したりした。

90歳の母とアラカンのわたしたち夫婦の3人が、実家の庭で、シニアカーを囲んであれやこれやと話したり、乗ってみたり。

ふと、その様子を空の上の方から俯瞰して見てる気がして、なんだか微笑ましいなぁと、今はもうあの世に行ってしまった父の気持ちになった気もした。

会うたびに母は、
お母さんはこんなに長生きしてしまったけど、できる限りひとりでごはんをつくったり、あなたたちの手を煩わせないようにがんばるけど、もうすぐ死ぬかもしれないからあとはよろしくと言う。

それはわかっている。
人は寿命が来たら死ぬ。

だから、今はこうして、
会えるときに会って、顔を見て、話をするだけでいいんだと思う。

すごく平和だ。

わたしは、かなり長く反抗期が続いて母を困らせたけれど、
そんなわたしのことを、亡き父は「そのうちあの子もわかる時が来る」と予言者のように言っていたらしい。

そして、それは本当だった。
時がくればそれは来る。
わたしの反抗期は、母の気を引きたい、大事にしてもらいたいという気持ちの拙いあらわれだったから、
ある時、母はずっとわたしを見てくれていたし、大事に思ってくれていたとわかってから、スッと消えた。

それからは、わたしは母にとって素直でいい娘だし、母はわたしにとって唯一無二のお母さんだ。
そこに、エゴは何もない。

今日も、夫と母と、3人で、いつものように他愛のないことを話したり、庭に出たり、そんな時間の中にエゴは何にもなくて、ただやさしい時間だけがそこにあった。

母だから娘だからと気負わず、何も緊張せず、気を使わず、思ったことを話して、笑って過ごす時間。
穏やかで柔らかなくつろぎの中にたゆたうとき。

しあわせというのはこんなことを言うのだろう。

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