春先の寒さと草花
明け方ベッドの隙間から
声を押し殺して泣く声が聞こえたので
そっと隙間を覗いてみたけれど
何もいない
隣で眠るあなたは規則正しい寝息をたてている
シャツのボタンは一番上まで止めて
胸元にモノレールの刺繍が入ったジャケットを羽織る
コーヒーカップを置き、手袋を持って外へ出る
わたしの職場はお煎餅工場の2階にある吹寄せを作る部署で
通称「ひなの巣」と呼ばれている
ひなの巣では、春を祝う行事として
3年前からイースターのお菓子もつくり始めた
これは予約を受けてもすぐ完売するぐらい
人気が高く、なかなか手に入らない
そんな春の吹き寄せ菓子には
サブレーで作ったウサギが入っている
敷き詰められた卵ボーロに
春の花を模した砂糖菓子と金平糖に豆菓子
クリームがサンドされた卵型の薄いウエハースはホワイト、ピンク、バイオレットにイエロー
ウエハースはカラフルな色で仕上がっており、
吹き寄せの彩りはより一層華やかになる
午後2時、サブレーがひなの巣に届いたと小野さんがみんなに伝える
今年のイースター企画の時、ウサギの他に鳩も欲しいと、小野さんは工場長へ提案したのだが、工場に鳩の型が無いという理由で断られたのだ
3年前に米菓工場で、サブレーを焼く事になった時、人事も驚くほど意欲的にみんなが働いたので、たぶん工場長の茂木さんはうるち米でも、もち米でも無い、小麦粉とバターで作るサブレーにみんなが飛びついた事に少し気分を害したのだろう
普段の吹き寄せ菓子だって、小麦粉を使った菓子は作っているのに、だ
ふと見ると渡されたケースの中に
耳の割れたウサギがひとつ入っていたので、がっかりする
サブレーのウサギは白い粉砂糖と卵白で作ったアイシングと呼ばれるペーストで耳や目を描き、形を縁取って仕上げる
4つ目のウサギを仕上げた時
そのアイシングを使って割れたウサギの耳を密かに接着した
本当は廃棄する決まりだけれど
小野さんが近くを通ったので慌てて耳の割れたウサギを隠すが乾ききらないウサギの耳は隠そうとした瞬間にぐにゃりと曲がり小野さんの姿が見えなくなってからそうっとなおす
サナダさんはその様子を見ていたらしく
夕方になって5個目のウサギを仕上げていたら、そばに近付いて来て耳を接着させたウサギはどうか?と聞いて来た
サナダさんには割れた耳のウサギを見せた
少し歪んでいたが、綺麗に固まっていたので、サナダさんも嬉しそうにウサギを見つめた
その後、サナダさんは鳩のサブレーが却下された本当の理由は
鎌倉の老舗に配慮してのことだったと話し始めた
小野さんが鳩も欲しいと提案した時、みんななんで気がついていなかったのかとサナダさんは話していたが、どうでもよかった
今日中に6つ目のウサギサブレーを仕上げたい
ステンレスのトレーに載せて、仕上げたサブレーを棚にしまって帰りたいのだ
春先になり、日がだいぶ長くなったとはいえ、ひなの巣の職人がほとんど帰ってしまったこの時間、既に外は真っ暗だ
サイズ違いのピンセットが5本と
アイシングの絞り口は2Aから7Aまで金属製のものを3種類
そのほか、いくつかの備品を洗浄して
滅菌室へ入れる
廃棄用のウサギサブレーはそっと
濾紙に包んで鞄にしまう
胸元にモノレールの刺繍が入ったジャケットを羽織り自転車に乗る
草花の咲く季節になり、踏切の角の桜もライトアップされている
自宅前で自転車を止め、空を見上げると
ざるの底から漏れ出す光のように、たくさんの星が瞬いている
深夜、ベッドの隙間から
嗚咽する声が聞こえる
そっと起きて、鞄の中から
耳をなおしたウサギサブレーを
取り出す
肩震わせ、声を押し殺して泣く声が静まるまでウサギサブレーを眺める
泣き止んだら
そっとウサギをベッドの隙間に置き
再びわたしも目をつむる
来週、小さな菓子箱に
黄色いたまごボーロを敷き詰めて
出来上がったウエハースや、ウサギサブレー
花々を置き、金平糖をあしらった
イースターの吹き寄せは完成する
そしたら萠ゆる新芽の木々の下
焚き火でもしたらいい
そんなことを思いながら、朝まで眠る