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木が「いる」と信じる文化
こんな言葉があった。
セラピスト(仏教心理学)の岡野さんの言葉なのだが、どう理解すればいいのか。
木が「いる」と信じれる文化は、前回の続きになるが我ー汝の関係につながる世界のように思う。
木は「ある」と信じれる文化は、現代の主流の考え方とも言えよう。
昨日の話で言えば、自分の手にした盲導犬が「友」なのか「犬」なのか、なのかもしれない。
現代の主流にさせているのは、科学やキリスト教的な捉え方から派生しているように思う。自然は人間(私)の為にあるものなのだ。神はそのように世界を造られたし、自分を外に置いて対象を見る世界なのだ。相手は自分の為に「ある」。ブーバーはそのような見え方を《我ーそれ》の関係と名付けた。
ブーバーの求めた《我ー汝》の関係は、彼の宗教ユダヤ教の中にしかないと言う。神と向き合うその瞬間にだけあるのだという。だから禅などと言うのは誤りであると。
そこまで厳しく考えなくとも何気なく自分の中で友や師に語っていることはないだろうか。それも《我ー汝》ではないだろうか。
岡野はどちらがより優れた文化か、簡単に決められないと言う。生きていく為には食べないといけないし、狩りもしないといけない。木が「ある」と信じる世界だ。ただ、それだけだと、南北戦争前の南部の地主(例えばアダム)になってしまう。周りの黒人(例えばトム)は購入した奴隷でしかない。
アダムには、有能なトムにしか見えないが、トムの持ってる深い世界は見えないだろう。使えるか使えないかの評価しか持てない。それが「ある」を信じる世界の住人だ。
トムが友と見えていたならトムが「いる」と信じられるだろう。トムの世界がアダムの知らなかった新しい可能性や道を見つけられたかもしれない。
カウンセリングとは、岡野の言う木が「いる」と感じられる世界。だから僕は大切にしたい。ただ、生きるとは食べることでもあるので、木が「ある」世界に戻らないといけない。木を切って薪にしないと身体を暖められないし、鍋も煮れない。
囲炉裏端って、「ある」と「いる」が共存している世界なんだろうなぁ。
木を焼(く)べながら、ものがたる。
盲導犬とか、犬とか、従業員とか、ダンナとか、女房とかではない、《あなた》を感じる関係・・簡単に決められないとは、その《あなた》を感じる関係を知ってるってことなんだろうな。