姉倉姫神社(「ふなくら」について)
昨日は、姉倉姫神社に行ったことを話した。
姉倉姫神社は2つあり、船峅にある姉倉姫神社を主に話した。この神社には別当寺が今も残っており、帝龍寺と言う。
この寺の山号はせんべんざんと読ませるが、『船峅山(ふなくらやま)』と書く。僕には「ふなくら」と言う言葉が先にあり、「船峅」と言う漢字を当て、中国風の「せんべんざん」と読ませたのではないかと考える。
では、この「ふなくら」とは何なのだろう?
この寺の周囲には「直坂(すんざか)遺跡」、「大野遺跡」などの縄文遺跡が出土している。
この地に棲んでいた人々のこの地の呼び名が「ふなくら」だったと、それが奈良の時代まで続いていたのではないかと考えている。
縄文語?縄文の頃話された言葉に近いものとしてアイヌ語があると言う。仏教が入り中国の言葉が多く混ざった言葉となる前の言葉は(やがて北へ北へと追われた)アイヌの人々の言葉に近かったと考えられる。
実際、能登や黒部などの地名はアイヌの言葉で解釈出来るという。
アイヌ語を調べてみた。
・futne ふっネ と言う語がある。
「狭くアル。狭くナル。」と言う意味だ。言い換えれば「谷」のように、細くなっていくところ。sep (せっプ)と言う語の対語だ。
・kura はクルグルに由来し「神が宿る」意。
funeに冠されたのだろう。
続ければ
fune kura = フッネ クラ と言う音になる。
広く開かれた場から谷が始まる、狭くなる場所として、この地を「フッナクラ」と呼んでいたのかもしれない。
正確にはこの頃にはハ行はパと言う破裂音なので「パッナクラ」なのだろうが。
アイヌ語地名は地形などを素直に言葉にしているという。
この地も富山平野から飛騨の山々になる神通川の扇頂部に当たり、「広く開かれた場から谷が始まる」「狭くなる」の表現とぴったり合う。
地名やその地に特有なものは、後に来た人々もその言葉を引き継ぐことが多い。
訪問者 これは何か。
地元民 それはバナナだ。
訪問者 バナナか。
地元民 バナナだ。うまい。
こんな具合だ。
そうやって、引き継がれた言葉(地名)は縄文から弥生に引き継がれ、この地は「ふなくら」と呼び習わされてきた。
やがて弥生の時代にこの地は出雲勢力に治められることとなる。その際に契機となったのが昨日話した姉倉と石動彦の戦なのだろう。逆に言えば、それで初めて後に残ったのかもしれない。
そして姉倉姫を祀るための社に毎年「幣」を送り、この地の民心を治めたのだろう。富山で最も古い神社と言われている。
700年となり大宝律令の一大改革が始まり、あちこちに仏教寺が建てられ、その新しいスタイルとして姉倉姫のための帝立寺も設置された。民心を維持するための施策だ。
山号は多くは所在地から付けられることが多い。そこで「ふなくら」と付けられたのではないだろうか。
その際に『峅』と言う字が新しく作られている。
何故、新しい文字を造ったのだろうか。
峅と言う字は国字だ。日本で作られた漢字なのだ。日本では3ヶ所の地名でしか使われていない。
船峅、岩峅、芦峅だ。
今日は、この辺で・・。
雑談
姉倉姫神社のある地は「舟倉(ふなくら)」と言う行政地名。しかしながら、この名で呼ぶ地元民はあまりいない。
皆、「寺家(じけい)」と呼ぶ。旧船峅村な人にとっては寺家なのだ。