「解」(いもうと)
あねへ
こんにちは。いもうとです。
雪の遅かった札幌ですが、こういう年はどこかできっちり帳尻を合わせるのが北国です。どんどんもふもふ、景気良く降り積り、ちょっと解け、また降っての雪景色です。
私、ずっと不思議に思っているのですが、「雪解け」って字面には何だか違和感を覚えません?「氷が溶ける」と同じ「溶」でいいじゃないか、と思う。なぜ雪には「溶解」の「解」をつかうのだろう。熟語にして「融雪」にすると「融」なのは何故なんだい??日本語は不思議です。
「解」とかす。とける。
考えに考え、ちょっと疲れてしまったというあねの、その後の体調はいかがでしょうか。「休めばええねん」と父はきっと言うと思います。どうかどうか、ゆっくり休んでください。あったかくして、美味しいものを食べてください。父は風邪のときや体調不良のときにまで、勉強しろ、塾に来いとは言わなかった。
父自身は具合が悪いことを隠し、黙って、ひどく悪い状態になって倒れる、ということになってしまいましたが、父は休むことも、怖かったのだろうと思います。何せ当時は嘱託職員と非常勤講師の掛け持ち。来年も継続雇用されるかどうか、更新の時期にはひどく気を揉んだことだろうと思います。どんな人も、どんな雇用形態でも、休みたいときには不安なく休めたらいいのに。死後見つかった父の手帳には、ある日の日付に「解雇」と記されていました。どんな気持ちで家に帰ってきたのでしょう。
「解」やめる、免じる。
「やることができないのではなく、明確な意志を持って『やらない』」とあねのいうアドラーの言葉について。
なるほど私もそうです。「外で働けない」のではなく、「外で働かない」。「子供もいないのに働かないなんて」と自分の中に棲む「世間様」の声で自分を責めてしまうこともあるし、この先職について働くことになったときに、ブランクが大きくなる不安はありますが、今現在は、そうしたいから、そうしている。そうやって自分に答えを出すことは一つの解決です。
「解」物事のもつれをとく。こだわりをとく。
そして、外で働かずに家のことをして猫を抱く暮らしは、私にとって、とてもとても「楽」であることも事実です。変える必要がないのです。外で働き、人に出会う生き方がいちばん楽しい人にとっては辛いかもしれませんが、私にとっては、今のところとても、楽しい。「やらない」意志です。「夫の健康を第一にしたいから」とか何とか、いくらでも理由付けすることはできますが、それらは後付けです。でもどんな人も、どんな生き方も、楽しく生きられる方がいいと思う。
どうも物事の根本には道理の通った原因がある、と思いがちですが、玉ねぎを剥いて剥いて何も残らないみたいに、そんなものがあるのかどうかも曖昧なのかもしれません。あるいは、そのときに湧き上がる感情、もしくは快や不快の感覚がまずあって、それらを自分の外に解き放つために「理由」が必要なのかもしれません。
「解」ゆるめる。ゆるす。自由にする。
「解」を辞書で引くとまだまだたくさんの意味があります。
物をわける。はなれる。散らばる。はなす。ばらばらにする。きりはなす。切りさく。開いて明らかにする。物事をわかるようにする。申し開きをする。いいわけする。ときあかす。講義する。さとる。物事の筋道がわかる。のみこめる。がてんがゆく。
おお、なんと、とかしてほどいて細かくして、明らかにして納得していく過程ではないですか。
この次に、「ゆるめる、ゆるす、自由にする。」「やめる。免じる。」そして「落ちる。脱落する。」(「解頤(かいい)」、感心してあいた口が塞がらない、また大きな口で笑う、笑いすぎてアゴがはずれるなどの意味です。あごが落ちるのね)と続きます。
理解することは、自由になることに続き、自由になることは同時に何かをやめることであり、支え、あるいは縛っていたものから離すことでもあるのですね。
とは言え「世の中にはわかることよりわからないことの方がはるかに多い」という父の言葉も悲しいくらい本当のこと。「わからないこと」は絡みあって、万事解決はきっとむずかしい。けれど「わからないこと」は絶望ではなく、闇でもない。そこにはまだ「何かがある」。知ることで広がる世界なのか、あたらしい視点なのか、見落としていたものなのか、出会いなのか、別れなのか、道標なのか、見つけた人だけにわかる「何か」が。
少しずつ、とかし、ほぐし、さとり、ゆるめたいものだと、思います。
何を?何かを。
考え続けるあねと私とは、とかしほぐし、また絡まり、またとかす、その過程を報告し合っていくのだと思います。
ゆっくりゆっくり、休み休み、一緒にいきましょう。
「解」の意味については「角川漢和中辞典」(角川書店)を参照しました。