一日の終わり(いもうと)
あねへ
すっかりたっぷりずいぶんご無沙汰をしてしまいました。と、毎回言っている気がする……
前回の手紙から、夏休みを丸ごと挟んでしまいました。
(甲子園は熱かったね。104回目にしてついに深紅の大優勝旗が白河の関を越えたね。青春って密だね。)
ときどき思い出しては不思議に思うのですが、どうして私は小学生のとき、長期休暇に絵日記を書いていたんだろう?同級生は誰ひとり提出していなかったから自発的にやっていたのだろうけれど、インドア派で自宅と平穏と安寧を心から愛する子供の、変化に乏しい日々をなぜ書き残し、なぜ担任教師に読ませなければならなかったのか。しかも私は決して絵を描くのが好きでも上手くもなかったのに。謎です。
しかし私は今でも手帳に日々の記録を書きつけているのです。変化に乏しい、しょうもない、誰にも積極的に読ませない、自分ではときどき読み返してしまう、通り過ぎた今日という一日のことを。
長田弘「一日の終わりの詩集」の最後に、「Passing By」は収録されています。
Passing By
結局、わずかなものだ。
静けさ、身をつつむだけの。
率直さ、親指ほどの。
日が暮れる。一日が終わる。
大葉をのせた笊豆腐で、
冷酒を飲む。
あるいは、ブルーチーズを切り、
白ぶどう酒を飲む。
言葉を不用意に信じない。
泣き言と言葉とはちがう。
神を知らないので、
神にむかっては祈らない。
テーブルの上の猫。
黙って聴く音楽。
キム・カシュカシャンのヴィオラで、
ヒンデミットのヴィオラ・ソナタを聴く。
大きなぶなの木。
フクロウの影。
必要なだけの孤独。
澄んだ空気、せめてもの。
笑う。怒る。悲しむ。
それだけしか、
人生の礼儀は知らない。
ふりをする人間がきらいだ。
忘却の練習をしよう。
むかし、賢い人はそう言った。
何のために?
魂をまもるために。
結局、わずかなものだ。
いま、ここに在るという
感覚が、すべてだ。
どこにも秘密なんてない。
ひとは死ぬ。
赤ん坊が生まれる。
ひとの歴史は、それだけだ。
そうやって、この百年が過ぎてゆくのだ。
何事もなかったかのように。
わずかな、ささやかな、けれど不可逆の日々の流れは、蛇口を捻って止めることもできないし、この世の理は変わらない。滴るひとしずく、この一日に、誰かの孤独も、誰かの歓喜も、共感も不和も全てが内包されている。
人間は、百年経ったらだあれもいないけれど、だからって、どうせ過ぎていく、どうせ死んでしまう、どうせわからない、どうせ変わらないと、絶望しても諦めてもいけない、と思います。だからこそ、一日は愛おしいのだろう、とも。
一日の終わり、八月の終わり、夏の終わりの間近な夜が更けていきます。
どうぞ元気でお過ごしください。