珍味道中
「もの食う人びと」という本をご存知でしょうか? 1994年に発刊された名著です。作者が1年以上も時間をかけ、世界で人がどんな風に飯を食っているのか、あるいは喰ていないのかを確かめる事を目的としたノンフィクションです。
食だけでなく食を通した文化やその土地の問題にも言及されている事が特徴です。
僕はこの本を読んでいる最中、無意識に大学生活の食を振り返っていました。恥ずかしながら一人暮らしで自炊も面倒に感じており、かつ食も細い為大学後半からは1日1食が基本となっていました。
さらに大学生活ではほぼ、すき家の「三種のチーズ牛丼」とカップ焼きそば(UFOと一平ちゃん)しか口にしていませんでした。
もの食う人びとを読んで、僕も自分の食意識を破壊したい衝動に襲われました。
常に同じ物を食い、嗜好の偏りがとりわけ激しく、食に感動を久しく感じていなかった僕の食意識をどうしたら破壊できるか。
少し考えた後、珍味と呼ばれる今までの自分なら絶対に避けたものを食う案を採用しました。
名付けて珍味道中プロジェクト。半年前から始め、この3月を持って終了します。
せっかくなので、思い出をNOTEに残すことにしました。
この半年、ワニやラクダやコオロギやグソクムシや鹿などを食べた。
いくつか思い出深いものをピックアップして書き残しておきます。
part1 グソクムシ
まずグソクムシだ。こいつを知らない人は是非インターネットで画像検索してもらいたい。こいつを丸揚げで食べました。
丸揚げだったので、ナイフでグソクムシの体を切り分けるのですが、切った所から黒色の怪しげな液体が吹き出し、明らかに人間の食べるものでありませんでした。
味は今まで食べた中で最低最悪でした。前述した通り私は1日1食。グソクムシをのせた皿が目の前に置かれた時は丸一日何も食べておらず、腹には何も入っていませんでした。
にも関わらず口に入れた瞬間に本当に吐きそうになったのです。体が摂取してはいけないものだと吐き気で警告していました。
おまけに全身が殻で覆われているグソクムシは噛んでも口の中に残り続け、苦く不味く臭くこの世の物とは思えない汁を噛む度に出してくるのです。
グソクムシの匂いは店を出た後も口の中に残り続け、1週間近く取れなかった。シンプルに悪夢でした。
part2 コオロギ
コオロギも口に合わなかった。私は小さいものから大きなものまでコオロギ6種詰め合わせを注文しました。
少ししてウェイターがコオロギを私のテーブルに運んできました。小さな皿にサイズも形状も少しずつ異なる虫が所狭しと置かれており、皿にはなぜか雑に切られたキャベツが敷き詰められ、その鮮やかな緑がコオロギの濁った茶色をより際立たせていました。
自分で注文したのだが、その異形の光景にうわっと低い声が出てしまった。それを聞いたウェイターが「こちらコオロギには京都で採れたものもありますので…」とフォローしてくれた。
いや、そういう問題じゃない笑。
これほど安心できない国産は初めてだった。
part3 鹿
記憶に残るものには鹿もあった。
過去の珍味で、よく分からない店で食べる珍味に嫌気がさすようになってきたので、鹿は少し高級でちゃんとした(このちゃんとしたに定義はありません、感覚です)レストランを選んだ。
私のこの判断は正しかった。見栄えも美しく、美味しい鹿を食べることができた。
しかし鹿肉を臭った時、口に入れた時の獣臭は凄まじかった。
カエルは鶏肉と食感が似ているから言われなければ分からない。と知り合いから聞いたことがあるが、この鹿肉は明らかに今まで食べた肉とは食感も味も異なっていました。
好みが激しく分かれると思いますが、僕は美味しく頂けました。
この珍味道中を通して僕が最も感動した事は「珍味」ではなく「友人」でした。
驚いた事にこの珍味道中、毎回異なる友人が僕に付き添ってくれたのです。ワニやコオロギを食べに行こう、というのは「タピオカ飲みに行こ!」とは次元が違います。
毎回一人で行くだろうという想定とは間違っていました。
僕の変わった趣味に理解を示し、かつ一緒に楽しんでくれた友達には感謝してもしきれません。僕の周りには本当に素敵で優しい友人がいるんだ、と僕は珍味道中で実感することができました。
最後に半年間、珍しいものを食べた僕が辿り着いた境地を共有してこのNOTEを終わりたい。