ぼくとおじさんと - 同窓会で
番外編③同窓会で 1923年9月1日の事 ep.2
坂本が話し始めた。
「岡村の防災の話、自分たちで出来る事は確かうちらの学校新聞でやったことで、確か岡村も編集してくれて、それを今もやっているという事では尊敬に値することだが、あの時からデマで朝鮮人が大勢殺されたことが、俺は気になっていたんだ。
今年が関東大震災100年目という事で、色々報道されているが、あのデマの事が気になって俺も調べなおしてみたんだ。政府や関係機関に国会でも野党も色々質問をしていて、100年前に政府が調べると言って未だに回答が無いのはおかしいよな。中川、お前官僚のはしくれだ。警察関係や色々資料が残っていると思うが調べてみないか。」
坂本は警察官僚の中川に話を持っていくが、中川は渋々と答弁に入る。国会答弁もこんなもんだろうか。
「例えば政府や上司から、坂本のように訊かれたら調べもするよ。だけど国の返事がないというのは、資料として残っているものが無いのかも知れない。大震災のどさくさという事もあるし、東京大空襲では多くの資料も焼かれてしまっているし。」
「敗戦の時には沢山の資料が関係者の手で焼かれたと聞いている。あの震災のデマの事で都合の悪いものも残らず焼いたのかな。」
坂本は中川に喧嘩を売っているようにも聞こえる。
以前、坂本と中川は戦後の日本に関して長い論争をしていた事があった。
平和憲法を巡って、坂本は理想の国づくりが日本国憲法の精神だが戦後の国づくりは違っているという事に対して、中川の答えは今でも僕の記憶に残っている。
あの時の中川は「俺たちは、与えられた条件の下で最善を尽くして国づくりをやっている。理想は尊重するが、現実と乖離しているからと言って一概に現実を否定するのはおかしい。」と論陣を張っていた。
あの時も喧嘩腰に怒鳴り合っていたが、別に坂本も中川も仲が悪いわけではない。
考え方が違うだけだ。
だから女性観の違いで怒鳴り合いの話していても、二人とも女は大好きで、そんな時は二人でこそこそと話をしている間柄だ。
ただ、僕の中川への感想は、どこか官僚じみて関心のないことには冷たいような接し方をするのが嫌いだ。
官僚は皆がそうではないにしろ、知識はあるが長いものには巻かれろ式の生き方に見えるのだ。
坂本は中川を無視して話続ける。
坂本の話は長くなる。皆は覚悟して、酒を継ぎ刺身に箸を伸ばす。横山はあくびをしながら顔だけは坂本を見ている。僕と文乃と岡村は真剣に坂本に向き合っている。
「関東大震災のデマと虐殺に関しては、言葉と時代を考えなければならないだろう。それは今の事柄にも通じるからだ。まず言葉。不定鮮人という言葉が新聞を賑わしていた。皆がこの言葉を使っていた。この不定鮮人という言葉は、1919年の朝鮮での3.1独立運動を暴動として新聞では取り上げ、この時以来、不定鮮人という言葉が使われることになる。
それまでは1910年の韓国併合以来、日本の統治下で起こっていた反日運動での朝鮮人のテロリストや朝鮮独立運動家を排日鮮人と呼んでいた。
この鮮人という言い方は、例えば日本人を本人(ポンじん)と言えば侮蔑した言い方になるが、政府も国民も平気で鮮人と呼んでいたのだが、この排日鮮人と言う「排日」の言葉を嫌った時の韓国総監府の伊藤博文が公文書に表記するのを禁止したんだ。そのため警務局が「排日」の言葉の代わりに「不逞」という言葉に入れ替え、「不逞鮮人」という言葉を造って公文書に使い出したのが最初と言われている。
ここで、日本の国づくりの中で、この事を考えてみよう。
徳川時代までは朝鮮は友好国で朝鮮通信使でも知られるように日本と朝鮮は友好関係にあったのだが、明治以降の国づくりの中で先進国ヨーロッパの技術、文明に追いつくために取った政策がヨーロッパ至上主義で、その結果は東洋蔑視だった。
当時の日本を取り巻く国際情勢の中で、隣国朝鮮が中国に就くかロシアに就くかで日本の国運が危ぶまれると考えた明治政府は、中ロで悩む朝鮮政府に対して下等国扱いで属国化を進めてきた。
朝鮮の宮廷に乗り込み、王妃の閔妃を日本の行使が首謀して王妃を日本刀で切り殺す事件などその最たるものだ。日本の国民は、それに何の違和感も感じていなかった。
それは1894年の日清戦争、1904年の日露戦争で勝利した日本の増上慢から来ていることで、隣国朝鮮の安定、即ち親日本・属国化は日本の国防上必要なことだと明治政府は考えていて、それは明治政府を認めない朝鮮政府、朝鮮国に対しての朝鮮出兵論議でも分かるように官民挙げての朝鮮進出、朝鮮支配観であったわけだ。
他国を武力で征服することが侵略とは考えない西洋式の思考で、侵略は自国の防衛上必要なことであり、そこで支配される民族、国民は劣等民族、劣等国家という意識は官民共通の意識だった。だから属国となった朝鮮人の反発が理解できず、日本の法に従わない輩に対しては、下等民族、文明に遅れた野蛮人と同等の観点即ち人権も何も、人間としての権利を認めなかった。
これは北海道のアイヌ政策でも分かるように、それまでの生活、習慣、言語を否定し、名前まで奪い、土地調査事業という名目で土地まで奪いつくしたことでもその政策と目的が良く分かる。
無用な生き物への殺戮は当然なこととして、物としての利用を考えると天皇の思し召しとしての同化政策、それは命は守ってあげるが、あくまでの日本人に奉仕することが前提条件だった。だから後に残るのは同じ人間を下に見る事、即ち差別が残ることになる。
平気で鮮人という言葉を使い、支配に従わないものを不逞という言葉は、官からマスコミ、これは当時で言えば新聞、そして民に至るまでの、何の疑問を抱かない言葉だった。
そしてその言葉は、強権支配即ち侵略に対しての朝鮮人の反発への恐れと恐怖をも含んでいた事が、関東大震災でのデマと朝鮮人への虐殺につながるのだ。これは当時同じように殺された中国人にも当てはまる。
当時、言葉を上手く話せない聾唖者や言葉の訛る地方出身者の日本人も殺されたが、朝鮮人に対する差別感と恐怖心の大きさが良く分かる出来事だった。ところで、不定鮮人と3.1独立運動の話に戻そうか。」
坂本はのどが渇いたのだろうか手元に水を探していたが、見当たらないので酒が入ったコップでのどを潤していた。
飲んだ後で、ホールの係に水を注文していた。中川にとって、水は付け足しなのかも知れない。
以前、僕の周りには大酒飲みが何で多いのかという話を文乃としたのだが、その時文乃が僕を指して「類は類を呼ぶのね。」と笑っていたが、僕は酒を水のように飲むことはしない。酒は楽しむもので、水と酒の区別がつかないのは酒に失礼だと思っている。
僕は、蔵元別の酒の味を楽しむ酒好きだと思っているが、酒飲みという意味では坂本も僕も同じなのかも知れない。
坂本は姿勢を正して話し始める。メガネが少し顔中でずれてきたが、それは今話している事と別問題なので誰も注意をしないようだ。
「さて、第一次世界大戦が終わり1919年1月からパリ講和条約が始まった。この時、主張されたのが民族自決という考えだった。ヨーロッパでは、ポーランドやハンガリー、チェコスロバキアの民族が国家として認められた。東アジアでもモンゴルやアフガニスタンの独立が勝ち取られていく。
1910年に日本に併合されて朝鮮という国が亡くなった朝鮮人も3月1日に宗教人や大学生を中心に3.1独立万歳運動が起こった。そしてこれは全国に波及して、日本側の強力な抑え込み暴力を発揮して多くの犠牲者を出している。この時、200万人の朝鮮人が参加したと言われている。日本側は死者数を少なく見積もっているが、資料によると7400名が殺されたと言われる。
4月15日、提岩里というところでは、暴動首謀者とされた数十人の朝鮮人が協会に集められ銃殺と同時に協会ごと焼き殺されたという事件があった。
この時指揮していた軍の指揮官は軍事会議に処されているが、「正当に暴動鎮圧の任務に服したるもの」として無罪の判決を受けている。
日本の教科書には出てこないが、3.1独立運動に参加して3年の刑務を課せられ刑務所に送られ獄死した女性は、独立運動家として「朝鮮のジャンヌダルク」と呼ばれることになった。独立運動もこれ以降、弾圧により組織的な抵抗が不可能になり、志を持った庶民や革命家の個人テロを繰り返すことになる。
日本政府も、それまでの武断政治から同化政策を進めていくことになった。
もともと3.1独立運動は民族自決の流れの中で、独立宣言書にもあるように日本の統治政策に対する不満の爆発を契機とするより、日本を打倒するのではなく朝鮮人の民族的啓発と自治自立を求めるもので、朝鮮国が独立国として日本と共に世界平和のパートナーになることを訴えたものだったが、日本政府は頭っからそのような主張を否定し、朝鮮人を暴徒として規定し弾圧を行い、新聞は国の意識に追随して不逞鮮人の暴徒として報道していた。
そして政府は朝鮮人すべてが不逞鮮人ではないと言いながら、人を見ていい人悪い人など分からない事を利用し、不定鮮人を持って朝鮮人差別を拡散し新聞も無批判的に追従していった。
当時の記録を見ても、庶民の中で朝鮮人に対する差別が普通にまかり通っていたことが良く分かる。このような差別感が、あの関東大震災での虐殺悲劇を引き起こした大きな原因の一つに上げられると思う。
ここまで話して、何か質問はあるか。高木。」
いきなり坂本は文乃を指名した。
そうそう、僕たちは結婚したが彼女を籍には入れていない。だから高木のままだ。僕の女房になることで借金の債務を負わせたくなかったからだ。子供ができてもそのままだ。借金の処理とは、それだけ手ごわいものなのだ。
「3.1独立運動が、世界史的にも大きな意味を持っていたことは、私たちにも理解できていないと思うけど、第一次世界大戦の反省の中での民族自決という問題提起は大きかったと思う。ただ、ヨーロッパ主体の世界観で、民族自決や独立もヨーロッパが対象だったわね。東洋に対してはほとんど関心が無かった。3.1独立運動に関しては、インドのガンジーが深い関心を持っていて、その後49歳でイギリスの統治政策に抗議し、あの非暴力・不服従運動を始めたと聞いているわ。それと世界大戦の反省として、日本国憲法にも取り入れられたパリの不戦条約も、あの時代の産んだ大切な宝物だと思うの。確か1928年だったわね。
確かに「侵略」と「自衛」の違いの定義が無かったり、不戦条約を締結した国の違反への対応処置も無かったりという不十分性はあったにせよ、あの時代の意識は尊重したいわね。
もっとも日本も条約を締結したけど、確か「人民の名において」というところが「天皇大権」に反するという事で問題になっていたのよね。
しかし、日本はその後中国侵略、満州国の建設と日中戦争、太平洋戦争と進んでしまったけれど、武志はどう思う。」文乃はいきなり僕に話を移した。
何も考えていない僕にはショックより怒りが先に立つ。思わず文乃を睨みつけた。そして坂本に向き合い、僕の一言をぶちかます。
「坂本、朝鮮併合と人々の反撥、そして朝鮮人に対する差別意識は良く分かった。この辺で関東大震災と朝鮮人大虐殺に話を戻してくれないか。俺はその辺を知りたいんだ。」
僕の怒ったような形相を見て、坂本は苦笑いをして話し始める。
「関東大震災の話をしよう。
1923年、大正12年9月1日午前11時58分、房総沖を起点とした関東全域を含む大地震で、マグネチュード7.9、東京、神奈川、埼玉、千葉、山梨県で震度6~7という大規模なものだった。死者、行方不明10万5千人。内訳はそのうち9割が焼死で特に本所の陸軍被服廠跡地では3万8千人が火災風に巻き込まれ亡くなっている。その他津波と土石流で千人が死亡。この大惨事で社会的な混乱も起き、窃盗や泥棒等も起きている。
そんな中で様々なデマが流されていて、翌2日には内務省警保局が、朝鮮人が放火をし暴れているという内容の通達を出している。これは、時の内務大臣水野錬太郎が「不定鮮人攻め来る」という流言飛語を耳にして戒厳令と同時に不定鮮人対策の指示を出したものだ。
デマを恐れたのには理由があって、4年前の1919年朝鮮総督府政務総監の時、独立党党員に爆弾を投げられた経験があるからだ。
内務省は「震災を利用し、不定鮮人は各所に放火し不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内で爆弾を所持し石油を注ぎて放火するものあり」と全国に打電している。このように公的機関によって裏打ちされた流言飛語が席巻し、新聞はそのままそれを流したのだ。
当時新聞社も被害を受け、何とか生き延びたところから順に新聞を発行したのだが、各社とも不定鮮人による井戸に毒を入れたとか横浜で2000人武装蜂起したとか、やれ強姦とか泥棒を含め、何の取材根拠もなく、垂れ流し的に朝鮮人への恐怖心を煽っていった。
俺が高校の新聞部で疑問だったのは、新聞記者が何の根拠もなくデマで記事を書いた事だった。
当時の内務省というのは、国内統治では絶対的な権限を持っていて、内務大臣のいる内務省の下に警保局があり、その下に警視庁、消防局、知事がある。知事が地方自治の長というのは戦後の事で、当時は内務省の一機関だった。それから軍・警察の主導で関東一円に4000もの自警団を組織した。
組織対象は青年団、在郷軍人会、消防組だが、そのほかに不逞鮮人取り締まりの自警団を作っている。この不逞鮮人取り締まりの自警団が、上からの不定鮮人対策の指示を受けてその他の自警団を巻き込み、挙句の果ては一般市民まで巻き込んで朝鮮人殺害に走った。
一方、震災に対して軍隊も東京に招集したのだが、大杉栄たちを虐殺した甘粕事件や、労働運動の指導者ら13人を亀戸警察署で銃殺した近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊の事件、また墨田区荒川駅(現八広駅)での軍による殺害や墨田川縁に引き連れ機関銃で射殺したり、電車車内に入り込んだ将校が朝鮮人親娘を日本刀で切り殺すなと悲惨極まりない虐殺を拡げていた。これらは証言として残っている。
彼ら軍隊は、東京への召集の指示は、震災対策ではなく首都の警備・警護が目的だったと言っていた。そこには不逞鮮人対策と、治安を乱すとされた社会主義者が入っている。また、習志野の部隊は、捕獲した朝鮮人を移動させるのにその一部を自警団に引き渡し虐殺に加担もしている。
当時内務省は虐殺の事実を認めたが、その被害者を233人としている。
吉野作造の調査では2600人。その他の調査では6000人、当時のドイツの資料によると25000人という数字を出している。
当時の韓国系の報道では数十万人の犠牲者数を報告している。
戦後、内閣府中央防災会議では虐殺被害者は震災犠牲者の1~数パーセントだろうとしている。
当時の朝鮮人は日本側の内国化政策で、登録名字が日本人化された人も多く何人の朝鮮人が震災で死んだのか虐殺されたのか判別が難しいのかもしれないが、第二次大戦中や特攻機で死亡した朝鮮人が日本名で登録されていたため、朝鮮人犠牲者の判別の難しさや勝手に靖国に奉られてしまうなど、日本の行った愚策のツケが末代まで虐殺被害者の調査を阻んでいる原因の一つでもある。
それともう一つは、朝鮮人に対する偏見の深さにもある。政府の行った愚策の結果でもあるが、震災の10月以降「暴走した」首謀者は逮捕、起訴されているが、そのほとんどが執行猶予であった。
先の提岩里事件の首謀者が無罪放免となるような差別偏見の風潮が続いている。
不逞鮮人という言葉は、当然ながら震災以後も続いており、1925 年の小樽高商軍事教練事件では軍事訓練の対象が不定鮮人であった事や、戦後1948年の阪神朝鮮学校潰しでも不逞鮮人という言葉を使い、戒厳令下で学校を潰して金太一少年を射殺までしている。
この不逞鮮人、つまり朝鮮人に対しては、戦前にも朝鮮人の母語学習所潰しがやられていたが、戦後の今も朝鮮学校を存在自体を認めていないのだ。」
坂本はそこまで話をすると、一呼吸し、改めて皆を見回してコップの液体を喉に落とした。
それが水か酒かは分からないが、高校以来の熱弁は彼にとっては負担だったのか、同級仲間に対する懐古の誉だったのか、心なしか愁いのある顔つきには見えた。
他に質問はないかを聞く前に、疲れたので答えたくない気持ちが先行しているのだろう。
「危機管理からデマを通じて関東大震災の話を展開したが、俺が言いたかったのは単なる過去の反省じゃなくて、今俺たちが向き合っている現実そのものだという事を言いたかったんだ。政府発表、新聞報道、何が真実かデマかの問題。そしてそんな中で人が何をやるのか。ただ、これ以上話すと口がもつれて話にならないので、も少し酒を飲んで口周りをすっきりさせてからなら、話も出来ると思う。」
坂本を見ていると、僕のおじさんやおじさん仲間の事が頭に甦る。
酒が好きな人は、酒が強いというより酒が生活のエネルギーで、それは親友との強いきずなで結ばれているようなものだ。
良い悪いは別にして、人生の伴侶に近いのかもしれない。夫婦がそうであるように良いも悪いも併せ持って生涯をともに過ごすのだろう。
僕はどうなんだ? 酒は好きだし文乃も好きだ。どちらを取るかという質問は愚問だろう。僕は両方とる。ここに正解なんて無いさ。
酒飲み友達の、酒で戯れながら真剣な話もする、こんな変な関係は酒だから許されるのだろう。
坂本を横目に見て、横山が動き出した。中川は仕事の疲れか、横になって寝ている。
「坂本の話を私なりに整理しよう。新聞部の部長なりに資料をまとめているので聞きやすかった。さて、私たちは現在、自然災害や政治、経済を含め社会的な危機に立っていると言える。そこで危機意識と危機管理に対して冷静に対処していかなければならないというのが、坂本の話だったと思うが、そうだろう坂本。」
坂本はうなずいている。が、坂本は独身でいるという岡村に、執拗に話しかけている最中だ。
「社会的な危機に関しては、社会というものは人間の作るものだから事前に予知は可能だろう。現在の社会の危機に関しては我々が子孫のためにも防ぐ責務があると思う。自然災害は予知できれば良いが台風ひとつとってもなかなか上手く対処出来ないでいる。事後処理になるが防災の観点で被害を最小限にする努力は必要だろう。岡村の言っていたことだ。これは数値化して対策がとれる。人間に関しては事前予防というのは、ヒューマンエラーの観点で統計と数値化は出来るが、自然災害の対策のようにはなかなかいかない。
ベストの状態での対処を考えるなら、酒の事や睡眠、かかりつけの病院や健康管理の状態を維持することの上に精神管理が必要になって来る。つまり、大衆の一人としてフェイクニュース、つまりデマに惑わされたりパニックにならないように日頃の情報管理と冷静でいられる自己管理の必要という事だ。特に、上からの情報管理が進んでいる現代、政府の行動、観点、マスコミの報道の仕方を見ながら、信頼できる友人とのネットワークの構築が大事という事だろう。自然災害でも、社会危機に関しても、一人で出来る事は他人とのネットワークがあってこそできるという事を忘れずにしなければならないだろう。
漠然とした言い方になってしまうが、一つ一つの課題を話し合い、皆が共に生き延びる事、共に生かし合う事を目的に考えることが、今日の我々の飲み会のテーマであり結論だろうと思います。」
やけに簡単に終わらせてしまっているが、この飲み会が有意義だったこと、問題を共有できたこと、知らない事を教えてもらい関心も膨らんだこと、
関東大震災、朝鮮人大虐殺、防災、それらにつながる危機管理の事を話し合う場ができた。それは亡き先生が岡村に託した事ではなかったのか。
僕はそのことを文乃に伝え、二人で心の中であの優しかった先生に手を合わせた。
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