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#1-1 noteはじめまーす!

愛知県岡崎市で地方公務員やっています、中川健太です。
昭和56年早生まれの現在43歳です。
自分への自己投資として、言語化能力を高め、発信力を磨き、より多くの方に自分の活動を知っていただきたいため、noteはじめまーす!

また、木下斉さんが所長をつとめるLDL(LocallyDrivenlabs)という、
地元と全国をつなぎ、所属メンバーそれぞれのプロジェクトを成功に導くためのオンライン型実験ラボに所属していまして、そこで提唱されているジブン株式会社という観点も織り交ぜながら、発信していきます。

個別のネタとしては、本業である地方公務員として約11年間立ち上げから唯一関わり続けている、公民連携まちづくり「QURUWA(くるわ)戦略」のこれまでや、これからのこと、それとかけ合わせるプライベート活動、昨年から始めたフルマラソンなど発信していきますので、ぜひお付き合いいただけると嬉しいです。 

noteの発信頻度は、できれば1週間に1本を目標にしたいと思います。無理しすぎると続かないので、適度にストレスかけながらやっていきたいと思います。

プロフィール


生まれは三重県伊勢市


三重県伊勢市出身の父と母のもとに生まれました。
実家は三重県伊勢市大湊町に今もあります。

実家の裏には堤防があり、その先に伊勢湾が広がり、反対側には伊勢市街、さらにその先に伊勢神宮や神路山と呼ばれる、山々が広がっていて、自然豊かな地域で育ちました。

伊勢神宮のおひざもとであるため、伊勢神宮と大湊町との関係性について少し触れると、20年に1回行われる、神様のお引越し「式年遷宮」があります。直近では2013年に行われています。そこに参加できるのは、伊勢市内の学区を単位とした77の奉献団です。大湊町ももちろん入っています。
大湊町には神宮の社に使用される木材の貯木場が昭和50年ころまであったため、特別扱いをされていたようです。他町の奉献団は木材を外宮に献上するところ、大湊町と岡本町(大湊町と岡本町のみ貯木場があった)のみが内宮に献上しています。

そういえば、大湊町は「信号も歯医者もない」レベルの田舎町です。よく母親が自虐的に言っていたのを思いだしました(笑)

余談ですが、大湊町(おおみなとちょう)の「湊」という漢字は「港」ではありませんよね。昨年、新潟市に伺った際に、港と湊の違いについて話題になりました。わたしも知らなかったので、せっかくなのでお伝えさせていただきます。なるほどーって感じです。

港:船着き場(のみ)のことです。
湊:船着場とともに、船や人など、地形以外の部分のほか、海や川や陸の部分全てを含んでいるというエリアのことです。港のあるまちという意味ですね。

父と母?はスポーツ万能

父の若かりし頃の話を思い出すと、高校生のときに軟式テニスのダブルスで国体へ出場して、ベスト16まで進んだ自慢話が浮かびます。その後、社会人になってからは、サーフィンをしていたようで、実家に帰ると写真がかざってあったりするので、当時はシュッとした装いで、お世辞抜きでかっこよかった印象。女子にもてたっぽい。その他、自分が小学生時代によく一緒にキャッチボールをしてくれたのですが、野球経験ないのにとてもうまいし、父の運動神経はとてもよかったんだと思います。

母も高校生時代は、陸上をやっていた話を聞いていたのですが、最近実家に帰った際に、高校1年のときだけやって、後は帰宅部だったそうな。こっちは3年間やっていたように聞いていたので、「えーっ!」と言ってしまいました。

そんな二人の遺伝子を受け継いだわたしは、スポーツ万能とまではいきませんが、得意な方だと思うので、小学生時代から今まで何かしらのスポーツをやってきました。通算、野球6年、サッカー&フットサル28年、現在は、本当はもっと続けたかったサッカーで腰を痛めたため、ランニングに転向してこの2月にフルマラソン完走しました。

小4~中3(6年間):軟式野球
高1~高3(3年間):サッカー
大1~大4(4年間):フットサル
社会人(21年間):サッカー
社会人(1年間):ランニング(フルマラソン)←いまここ

大学受験で、学習の型を習得

中学生時代は、軟式野球に明け暮れていた野球少年でした。あまり勉強も好きではなかったため、テストの際は、1週間くらい前から少し勉強する程度で、成績は、体育以外はオール3、体育のみ4or5でした。分かりやすいw
ちなみに、中学生の息子の最近の成績を見た際に、全く一緒でしたw

そんなわたしが、勉強に目覚めたのは大学受験でした。当時やりたいことも特になかったので、父のおススメの大学である名古屋市にある名城大学理工学部土木工学科を目指し、だいたい受験の約1.5年前くらいから受験を意識した勉強を始めました。わたしは書いて覚える派でしたので、とにかく問題集を説きまくり、わからないことは週一で家庭教師のお姉さんに教えていただいていました。春休みや夏休みは朝から晩まで10時間くらい勉強したのを覚えています。その受験勉強の中で、自分なりの学習の仕方として、書いて覚えてを3回繰り返すと概ね脳みそに定着する型を習得しました。

今は、PCやスマホがあるので、何かを学習するときに「書いて」という行為はなくなり、さらに、インターネットの発達で記憶するという行為もほとんど必要なくなったので、やり方は変わりましたが、何かを学び、自分の成長を感じたり、学ぶことそのものの楽しさについては、大学受験の体験が生きていますね。改めて振り返ると、しっかり受験勉強やって本当によかったと思いますね。

大学進学で名古屋へ

大学は名古屋市にある名城大学の理工学部を選択しました。このきっかけは父親です。高校でサッカーに彼女に、と勉強以外のことに明け暮れていたわたしに、よかったら「おれの業界もいいんじゃないか」と話を父から聞いたのを覚えています。おれの業界=建設業界です。

父は高校卒業後に、伊勢市の隣の松阪市にあるセントラル硝子の研究拠点の一つに就職しました。セントラル硝子は、ガラス製造、ガラス繊維製造、ケミカル分野を担う東京資本の会社です。

父は、その後退職し一念発起して、中水㈱という、土木工事業、 管工事業、 水道施設工事業を生業とする、まちの水道屋を立ち上げました。わたしの母、祖父、甥と一緒に家族経営で始めて、少しずつ従業員を増やして、会社全体として、最大10人弱は雇用していたと思います。現在は、父の甥が社長を務めています。主な取引先は、積水ハウスや伊勢市で、民間事業と公共事業の両輪で稼いでいましたね。

父は一代で会社を立ちあげたこともあり、土日まで仕事をしていた印象で、なかなか苦労していたようでした。公共事業の際に、伊勢市の職員と付き合うことがあったようで、市の職員の待遇などを知っていたたため、父の本音として「おれの業界もいいんじゃないか」と言われたことと合わせて、「こっち側(民間側)ではなく、発注者側(市側)にいくべき」と言われたことを覚えています。その結果、岡崎市職員として地方公務員になったことは事実です。給料は平均的な額ですが、休みやボーナスもある公務員がうらやましく見えたのですね。今の時代となっては、この先の公務員の安定など、何も保障されていませんが・・・

就職は愛知県岡崎市役所へ

何故伊勢市出身なのに、岡崎市役所へ行ったのか?、と思われれると思いますので、お答えしますと、理由は2つあります。
1つ目は、伊勢市役所の募集は当時「若干名/総合職」のみの募集だったためです。せっかく土木の勉強を大学でしたので、専門的な仕事がしたいと考えていた自分にとっては、選択肢に入らなかったですね。

現在、岡崎市役所に土木技師として入庁して22年目を迎えています。
これまでの経歴は次のとおり。

2003~2007年度(5年間):
 水道局工務課(管路の布設替え工事の発注&現場監理)
2008~2012年度(5年間):
 河川課(中小河川の計画、工事、維持管理)
2013~現在(12年目):
 公共空間活用(河川、道路)、公民連携、社会実験、QURUWA戦略推進

大まかに自分のこれまでの歩みをまとめてみました。
もちろんまだまだお伝えできていないことはまだまだあるので、今後の発信でお話できればと思います。

今回のnoteはこれまで、ということで、
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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