水のような文章を書きたい。
小説家の吉行淳之介さんのエッセイにこんなことが書いてありました。
私は水のような文章が書きたい。水道の水では駄目で、あれはカルキのにおいがする。水は無色透明だが、無味ではない。味ともいえない微妙な味がある。(略)水になってしまえば、「文章に実用的と芸術的との区別はない」ことになる。
前に「実用的な詩を書く」というコラムを書きました。「実用的な詩」というものを、別の視点からとらえてみたものと言えるかもしれません。
引用に補足すると、吉行淳之介は、過度な修飾をさけて、「必要で十分なだけの言葉で」自分の伝えたいことがしっかり伝わることが、「文章の要」だと、言っています。だから、「文章に実用的と芸術的との区別はない」と。
前のコラムでは石垣りんさんの詩を紹介していましたが、石垣りんさんの伝えたいことが伝わる手段を選んだ結果、詩に昇華されたと言えそうです。
吉行淳之介さんの「水のような文章が書きたい」とは、味の濃いような飲み物でも、お酒のようなものでもなく、人を選ばず誰でも飲めて、しかもごくごく飲みすすめられる。けれども、読み終わった後には何かが少しだけ残っている。そんなものだと思います。
僕もこのコラムをぼちぼちと書いているわけですが、伝えたいことが伝わっているか、すごく気になります。それこそ「過度な修飾語」は避けつつ、けれども、読後に何かが残るように。でもそれが本当に難しい。
自分なりの「水のような」味わいを出せたらと思います。文体など、とくに自分独自のものをもちたいなと、常に考えています。多分一生を通して、いつもどこかで求めていくと思います。自分を消しつつ、自分しか書けない文章。その文章の源流はここにしかなくて、ひたすら辿っていくしかないのです。