「歩く」ことを意識するということ。
初めて都会に住んだとき、何より人の歩く速さに驚いた。しかも、誰もが歩きながら、誰とも視線を合わすことがない。今では見慣れた風景になってしまったけれど、田舎者には驚きの風景だった。
実家の周りは、山に挟まれて家が数件集まっているだけの集落だった。なので、歩いているときに出会う人は、ほとんど顔を知っている存在だ。小学校の登下校は、家から学校まで2kmあり、子どもの足で40分以上かかっていた。下校の時には、近所の親御さんが車で通れば、家まで乗せてくれていた。
大学で実家を出て、初めてのひとり暮らしを始めたときも、大学の周辺は田舎で、のほほんとした大学生か、のんびり田舎住まいをした近所の人しかいなかった。道端には畑があって、いつもラジオを聴きながら腰をしゃがめて畑仕事をしているおばあちゃんがいた。友人のひとりは「ラジおばあちゃん」と呼んでいた。
初めて都会、博多駅から徒歩10分のところに住んだのは、大学を卒業した直後だった。それまでにも、何度も博多駅を通ったし、旅行で大阪や東京まで遊びに行ったこともあった。けれども、歩く速度を意識したのは、その時が最初だった。
なんというか、歩き方そのものが違うと思う。実家で暮らしていた時や、大学の頃の「歩く」というのは、どこかいつも「散歩」している要素があった。しかし、博多で見た「歩く」は、常に目的意識が先立っていて、「歩く」というものは、二の次になっていた。
今の世の中の通信速度はぐんぐん上がるし、いろんなものの効率化は図られていく。「過程」が削られて、結果だけが求められていく。けれども、たまには「過程」を楽しむということも思い出してみたいと思う。