まるで奇跡のような、俳優:松村北斗さんのお芝居を見るときに必ず起こる現象。
応援している人、好きな人をきっかけにして新しく
映画やドラマに出会うことがある。
私にとってそのきっかけを届けてくれる一人が松村北斗さんだ。
なので、映画やドラマを見るときには「松村北斗さんのお芝居を見られるんだ!」という気持ちで出演作品に向かうことがある。
映画であれば、映画館に向かう道中や新作映画の予告を見ているとき、
ドラマであれば、放送を待ちながらテレビの前で待機しているとき、
頭の中は「松村北斗」で埋めつくされている。
しかし、松村北斗さんがスクリーンに映った瞬間、画面に登場した瞬間、彼が一言発した瞬間、頭の中を埋め尽くしていた「松村北斗」は一瞬にして姿を変える。
確かに、目の前に映るのは松村北斗さんであることは間違いないのだが、自分の脳内が松村北斗さんだと気づいていないかのようになる。
さっきまで「松村北斗」が自分の頭を埋め尽くしていたことさえ忘れてしまう。
あまりにも自然に頭の中の「松村北斗」は「登場人物」に姿を変える。
この感覚は一体なんだろうか?
松村北斗さんのお芝居を見るときに必ずといっていいほどこの感覚になる。
よく、魅了するお芝居の表し方として「役に憑依する」という言い方をするが、役に憑依という一方的なものというより、役の方からも松村さんに歩み寄っているようにも思える。
憑依というより融合?
それだけ一体しているように見える。
先にも書いた、松村北斗さんのお芝居を見るときに必ずといっていいほど起こる「演じているのが松村北斗さんだと気づかなくなる」現象の他にも、もう一つ、松村北斗さんのお芝居を見るときに必ず体感できることがある。
それは、登場人物の「過去が見えてくる」ということだ。
この人がなぜここにいて、何をしてきたのか、何をしたいのか、どんな視点をもっていて、周りからどう思われているのか、登場してすぐにそんな描かれない部分まで一瞬で見えてくる。
映画やドラマでは一人の人が役の一生を演じる方が少ないと思う。ある特定の期間を演じるのが基本だろうし、幼少期となれば子役の方が、年齢をたくさん重ねた時系列になれば、その年齢に近い役者さんが演じるのが一般的だと思う。
そんな中で松村さんは、「登場人物」の人生を”点”ではなく”線”で見せてくれる。
作品では描かれないその人の「これまで」をこちらに届けてくれる。
役を「生きている」という感覚と同じくらいに、その役を「生きてきた」と思わせてくれる。
これだ…!!!!と思った。
そのあまりにも自然で、役と一体となったお芝居こそが、役の人生の軌跡を伝えるお芝居こそが、頭の中を埋め尽くしていた「松村北斗」が一瞬にして「登場人物」に変わる理由だと思った。
今年の出演作である、
映画『夜明けのすべて』
映画『ディア・ファミリー』
ドラマ『西園寺さんは家事をしない』
その全てで、松村さんが登場した瞬間に、松村さんの演じる「登場人物の人生」が見えてきた。
『夜明けのすべて』では、松村さんはパニック障害を抱える青年・山添くんを演じた。
この映画について松村さんはこのようにコメントしてる。
人の心の温かさと同じくらいに”街の温かさ”を描くこの映画で、生きづらさを抱える山添くんが「この街」で確かに暮らしてきたという違和感のなさを、山添くんの「これまで」を自然に演じ切っていた。
この映画を観たときもやはり、
頭の中の「松村北斗」は「山添くん」に一瞬で姿を変えた。
映画『ディアファミリー』では、大泉洋さん演じる主人公の坪井宣政と出会う研究医で、”後に”宣政に手を差し伸べる医者となる富岡進を演じた。
“後に”というように、松村さんが演じる富岡進は、寡黙で人とは距離を置く性格で、はじめのころは主人公一家の挑戦を冷めた目で見ていた。
なので、物語前半ですぐに研究所を離脱してしまう。
しかし、物語が進むにつれて、主人公・宣政の娘への愛情と、途方もなく大きな挑戦にも絶対に諦めない家族を目の当たりにし、影ながら研究を手伝うことになる、重要なキャラクターとなっていく。
なぜ、富岡は冷めた目で見ていたのか。
この映画は家族愛を正面から描くと同時に、困難な開発と医局の葛藤も描いている。
物語が進むにつれて明らかになる、富岡の医学界への葛藤。本心。決意。
富岡の初登場は「研究所の椅子に座る背中」で表情が見えないのだが、なんとその”背中だけ”で、冷めた空気感、後に明かされる医学界への葛藤の片鱗を見事に伝えている。
その背中を観た瞬間に、頭の中の「松村北斗」は「富岡進」に一瞬で姿を変えた。
そして、現在、TBSで火曜22時から放送中で、今夜最終回を迎えるドラマ『西園寺さんは家事をしない』では、家事をしない主人公の西園寺さんの人生を大きく変える年下のシングルファーザー、楠見俊直を演じている。
初登場時には無愛想で無口、なんでもロジカルに考える人柄がこれでもかと伝わってくるが、それと同時に、どこか温かさや優しさ、穏やかな空気を纏っているのもほのかに伝わってきた。
その心根の誠実さは一話の終盤で明らかになる。
妻を亡くし、誰の手も借りずたったひとりで、仕事と家事と4歳の娘ルカの育児をこなす、目まぐるしい日々を送っていた父親の楠見くん。
最愛の人を亡くしたことを悲しむ暇もないままに、「楽しいからする」という妻の家事への思いに気づけなかったことに、大粒の涙を流す場面。
楠見くんの持つ、豊かで尊い感情の機微を、初登場時から無愛想で無口という性格と共に、絶妙な加減で自然に纏っていたのが松村北斗さんのお芝居だった。
この作品もまた、エンドロールで「松村北斗」の文字を見るまで、松村北斗さんだと認識しないほどに自然と登場人物を生きていた。
どんな映画もドラマでも、どんな作品でも、どんな登場人物でも、松村さんが映った瞬間に、松村さんが演じる登場人物の「これまで」が見えてきた。
別の人の人生を演じるということにおいて、これだけ自然に生きることができるのかと、松村北斗さんのお芝居に何度も何度も心は魅了され続けている。
そんな人間のありのままを、内面を、どんな感情も生き方も「その人の自然な姿」だと伝えてくれる
松村北斗さんのお芝居が私は大好きだ。
そして、SixTONESとしてのアイドルの松村北斗さんも大好きだ。
ラジオでユーモアたっぷりに、それこそ一つの作品のようにフリートークを話してくれる松村北斗さんも大好きだ。
松村北斗さんが届けてくれる表現の全てが大好きだ。
これからも、松村北斗さんをきっかけにたくさんの作品に出会えるんだろうなあと確信している。
そして、松村北斗さんのお芝居と出会うその先で、松村北斗さんではない”誰か”に出会えるんだと確信している。
このあと放送されるドラマ『西園寺さんは家事をしない』の最終回をいま、テレビの前で待っている私の頭の中は今日も「大好きな人たち」でいっぱいになっている。