カタリ派最後の砦-モンセギュール城と遺された象徴
今月前半は情報発信ができていませんでしたが、家族と二週間南仏で休暇を過ごしていました。
パリ郊外では暴動が多発しているタイミングで南仏に休暇に出かけましたが、南仏にいる間は全く暴動を見ることはありませんでした。
報道からは"フランス全土"で暴動が起きているような印象を受けてしまいます。
ただこのタイミングで休暇に行けた事でパリ郊外を始めとし、局地的に暴動が起きている事は紛れもない事実ですが、
フランス全土で起きているわけではない
という事を自分の目で確認する事ができました。
今回二週間で訪れた主な街は以下です。
ヌヴェルアキテヌ地方
- リモージュ
- ボルドー
- バイヨンヌ
- ビアリッツ
- サン•ジャン•ド•リュズ
オクシタニー地方
- トゥルーズ
- フォワ
- モンセギュール
- カルカソンヌ
いく先々で出会った人達に車が燃やされたりお店が火事になったり強盗が発生したりしましたか?と聞いてみました。
どの街でも"北の方は大変みたいですね"と驚かれ、私達の街ではそんなに激しい暴動は起きていないですよという反応でした。
カタリ派の地であるオクシタニー地方はレジスタンス(抵抗)のイメージが強く暴動などがあってもおかしくなさそうだな、と思っていたので少し意外でしたが現地の方々と交流してみて
彼らのレジスタンス(抵抗)とは何か
が見えてきました(これは後半に後述します)。
ではそろそろ本題に入りましょう。
今回南仏を訪れたのは家族とゆっくり休暇を過ごすのももちろんですが、個人的な一番の目的はずっと気になっていたある場所に足を運ぶことでした。
それが記事のタイトルにもなっているこの場所です。
以前からスペースなどでも少し話してきたのですが、12世紀後半から13世紀前半にかけラングドック地方を中心としたフランス南部ではローマカトリックに対抗する新たなキリスト教宗派であるカタリ派運動が拡大していました。
(ちなみにカタリ派運動は同時期にイタリア北部でも勢力を拡大していました)
ローマカトリックから異端とされ最後まで改宗を拒否したため、205名のカタリ派の信徒達がモンセギュールで火刑に処せられ亡くなってしまったのですが、当時のローマカトリックは一体どうしてそこまで徹底的にカタリ派を弾圧する必要があったのでしょうか?
表の歴史舞台から消されてしまった彼らの教義とは一体どんなものだったのでしょうか?
日本ではあまり聞く事がなく、ほとんど知られてこなかった歴史だと思いますが、
"認知されていない"というのにはきっと
"それなりの理由がある"からだと思います。
カタリ派のことを調べれば調べる程いろんな事が繋がりとても一つの記事では書ききれそうにありません。
という事でカタリ派の謎を解き明かすべく、これからはカタリ派関連のnote記事を随時更新していきます。
第一回目の今回はまず、僕が実際に見たモンセギュール城へとあなたをご案内致します。
おっと、、、
その前にここから先はウサギの穴へとディープダイブです。
あなたの覚悟を問わせてください。
説明不要ですね。
あなたの意思でお好きな方を選択してください。
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