天才を殺す凡人①
2月19日(日)
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おはようございます。
急に暖かくなり、確実に花粉症の足音を感じている桑田です。
#なんとなーく、鼻がムズムズ
さて。
今日は、「天才を殺す凡人」というテーマでお話したいと思います。
前・中・後編でお話ししてみたいと思います。
▼天才と秀才と凡人
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人には、3つの部分があると言われています。
それが、天才と秀才と凡人です。
で、ここで勘違いしやすいのは、その人が「天才」とか、その人が「凡人」とかと一個人にはひとつの区切りしかない。と言うところです。
人には、やっぱり得意不得意があります。
なので、全てにおいて完璧な「天才」はいないです。逆を考えれば、人には全てにおいて完璧な「凡人」もいません。
それなのに、人間は学校の勉強ができれば「天才」、何かで目立てば「天才」ともてはやし、何かができないと「あいつばダメだ、ただの人だ」と凡人扱いしてきます。
でも、実際にはそんなことはなくて、多くの場合、一個人の中には「天才」の部分も「秀才」の部分も「凡人」の部分もあると考えられます。
この上で、3つのカテゴリーの関係性を紐解いて行きます。
▼「天才」と「秀才」
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まず、天才というのは、「創造性」に秀でている人のことです。
0を1にできる人。
それに対して、秀才というのは、「再現性」に秀でている人のことです。
1を100にできる人。
秀才は、1を100にすることはできるから会社にとってはとても重要で大切な存在です。
それに対して、天才は一生に何度かしかない0→1の人なので、作り出したらたくさんの価値を生むけれど、作り出すまでは、何もできないただの人以下です。
それでも、秀才は、作り出していなくても天才を天才だと理解できるため、尊敬のようなものを持ちます。
秀才は妬みもありますが、天才に対して憧れのようなものを感じるんです。
それに対して、天才は自分の考えていることはわかるけど、自分では何も作れない秀才のことにはあまり関心がありません。
天才と秀才にはそんな関係があります。
▼「天才」と「凡人」
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これに対して、凡人は、人口の大多数を占めているため、声の大きな集団となります。
結果、凡人というのは、「共感性」に秀でている人のことになります。
何か大きなムーブメントを起こすためには、この凡人である人たちの共感性を集めなければ、物事を前に進めることができません。
天才はそのことをよく理解しています。
そのため、凡人の人たちにいかに共感してもらい、自分の作り出したものを大きなムーブメントにすることを心から願っています。
一方、凡人の人たちは、天才の考えていることを理解できません。そのため、天才であることに気づかず、変わり者だと考え、共感ではなく、その全く真逆の「排斥」するようになります。
気がつけば、天才は凡人によって、世の中から排除されるようになっていくのです。
明日は、秀才と凡人の関係、そして、創造を得意とする天才の苦しみについてお話ししたいと思います。
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