狡猾な男。
仕事を終え、うららかな午後の夕べに、買い物を済ませて、足早に家を目指す。ふと、駐車場の隅にたたずむ男の影が目に入った。浅黒い男は、スマートフォンを片手に少し神妙な面持ちだ。インドかアラブ系の顔立ちのようだ。眼鏡をかけ、ぴしっとハリのあるスーツを着こなし、神経質そうな指先で、画面をタップし続けている。
端正な男だな。
ふと視線がぶつかってしまった。あまり色の無い目を細めて、笑顔で会釈する男。なんだろう。少し変態性を感じる。
私は友人の迎えを待つために、指定された道の脇に立った。子供たちはお腹を減らしているだろうと、考えを巡らせていると、
ふと、男が会話し始めた。どうやら、相手は恋人だろうか…それにしては、会話が浅いような。私は好奇心と持て余した時間を言い訳にして、それおなく、聞き耳を立てた。
どうやら彼は、インターネットで知り合った、女性と初めて会う約束をしているらしいことが、会話の切れ端から分かった。だが、しかし彼女は仕事が長引いてしまう為、日にちをずらしてほしい、と。
「俺はインドから移住してきて、この日まで頑張ってきた…今日を楽しみにしていたんだ。」
まぁ、金曜日ですしねぇ。海外ではアプリを使った出会いは、それほどハードルが高くない。みんな気軽に使うし、また、カジュアルに付き合うという文化が強いので、さほど珍しい光景でもない。
インドから、ねぇ…
私はインド人の友人を何人かもっている。彼らは信仰が厚く、離婚という概念は基本的に無に等しいはずだ。ならば不倫か。ふと気になったので、左手を確認する。
あぁ、やはり。
左薬指には、くっきりと日焼けのあと。どう言い訳するのだろう。あまり狡猾では無い。ハンターには向かないタイプだ。どうやら熱くなってしまった彼は、怒り気味に会話を進める…少しことの終末が見え始めたので、興味を失いつつ、子供の顔を思い浮かべ、ディナーの献立を組立て始めようとした時に、それはおこった。
電話を切った男が、落ち込んでいる。そして、ぼそり…
「僕が既婚者なら良いと言ったから、指輪も買ったのに…」
耳を疑った。どうやら、お気に入りの女の子は、既婚者をご希望だったよう。そして、彼は会ったことも無い彼女に執念し、指輪をあたかも既婚であるかのように見立て、「君は特別」と不倫を演じるために、夏のこの日照りが良い中で、じっくりと指輪跡まで残したのだろうか。いかに、彼が妄想と希望に思い入れていたか。畏怖の念。
愛なのか、執着なのか。初めに見てとれた変態性はビンゴだ。画面越しでは分からない、事情というものがある。画面の向こうでは、狡猾な人間が刃物をちらつかせて、獲物を狙っているかもしれない。
混じりあう人生は、何が起こるか分からない。一連のやり取りのドラマティックさに脳がついていけず、友人が呼んでいることになかなか気づかなかった。交差する人間模様。交錯する思惑。トラップは、意外と身近にあるかもしれない。
サイドミラー越しに見た彼は、また画面をタップしている。次の獲物を探しているのかもしれない。
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