文章を発表する気が起きない(駄文)
もう発表する用の文体にするのはやめようと思う。疲れるし、書く気が起こらない。
書くことと発表することは全く違う。純粋に「書く」がしたいのなら、チラシの裏にでも書いておけばいい。スマホのメモ帳にでも書いておけばいい。ネット上にアップロードしておいて、発表したい気持ちはないと言い張るのは流石に無理がある。
私には「どうせ言っても伝わらない」という諦念がある。それは他者を見くびっているとかそういうのではなくて、人には人の分かるべきタイミングがあるから。私もそうだった。かつて誰かから言われたことや読んだことについて、当時は感情的に反論したり、まともに取り合わなかったりしたけれど、今になって当時の自分が間違っていたと思えるようなことがたくさんある。人は神ではないのだから、本来的にそれでいいはずだ。
どうせ言っても伝わらないから、言わない。昔の私のように、感情的に反論されたり、あるいは全く異なる文脈同士の言い合いになりかねないから。私は議論を好まない。なんでもかんでも言える関係性が優れた関係性だとは全く思えない。言いたいことを溜め込むことよりも、不必要な議論にかかりきりになって精神的に消耗してしまう方が、私にとっては不快である。人間関係にはそれぞれ適切な距離感がある。
考えることと書くこともまた違う。私は考える時、文章で考えていない。だいたい映像的な何かであったり、単語、造語、持ち合わせの語彙で言葉本来の意味とは全く異なる意味で作成した短文なんかを用いている。だから、それを試しに口に出して文章にしてみると、スラスラ文章が浮かんでこない。私にとって文章化、あるいは言語化は、考えたことを他者にとって分かりやすくするための一工程でしかない。まあ、書くことで思考が明確化されることによって先に進める場合もあるにはある(ルックバックの感想文とかはまさにそう)から、一概に書くことが無駄という訳ではないのだけれど、普通に考えて費用体効果が悪すぎる。
というのも、私は「自分さえ分かってればそれでいいや」という気持ちがあるから。人に何かを伝えたいとも思わないし、伝えたいこともない。言いたいことはあるにはあるけれど、言っても伝わらない。
まだアウトプットの段階に来ていないのだと思う。まだ色々知りたいこともあるし、自分自身の在り方もまだまだブラッシュアップできる余白は多分に残されていると感じている。
メディアは若い小説家を持ち上げたがるけど、ぶっちゃけ若い人に良い小説が書けるとは思えない。まあランボーみたいな例外もあるし、大天才に限れば話は別かもしれないが、基本的に若い人は時間的経験が足りていない。私もそう。
時間的経験とは、例えば世間を知っているとか社会の理不尽さを知っているとかそういうことではなくて、もっと根源的な経験。それは唯物的な経験ではなくて、精神的な経験。内省に費やした年月と言うべき何か。時間は複利だから、単純に何時間やれば達成されるとか、そういう類のものでもない。
だから若い人の意見なんて、基本的には間違いだらけだ。私の文章も全て疑いながら読んで欲しい。しかし、間違ったことを言うなとは全く思わない。私が間違ったことを書いて、読んだ人がそれを信じてしまった場合、それは読んだ人の責任であり、私のせいではない。
間違ったことを言ったとしても、後になって自分が間違っていたと分かった時、自分の主張を訂正できる謙虚さがあればそれでいい。「私が間違っていました。誠にごめんなさい」と素直に謝れれば(それは他者に対してかもしれないし、自分自身に対してかもしれない)、それでいい。
かなり優しくない口調で書いてしまった。私が読み手なら「なんだこいつ」と思うだろう。
でも、これくらい適当にと言うか、雑に書いている時が1番「書く」を楽しめている気がする。私はきっと何かを体系付けて説明したり、あるいは何かを創造することに向いていない。もっと直接的な、ダイレクトに伝わるものを欲している。
ちなみに、適当に書いていると言うのはあくまで「分かりやすさ」という点においてのみであって、決して自分の主張がのらくらしているとかそういうことではない。自分が言ったことは大概ちゃんと覚えているし、自分が言いそうなこと、逆に言いそうにないこともだいたい分かる。
私は多分書くことに向いていないし、書き続けても何にもならないけれど、「書くな!」と言われる筋合いもない。