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ゲームとことば「アクマを ころして へいきなの?」- 良心の呵責は誠実さか

水を打ったような静寂の中、じっと対峙する「人間」と「悪魔」。いたいけな少女の見た目をした悪魔は仲間の亡骸を抱いて涙ながらに叫ぶ―――。
「悪魔を殺して、平気なの!?」

民明書房刊『中庸たる人間性の行き着く先』より

……という感じではまったくないのです、このセリフが登場するシーンは。すみません、出だしから大嘘つきました。

1992年の晩秋の頃。ゲームといえば中世風ファンタジー世界を舞台とし、敵は敵として排除する物語が普通だった時代に、「真・女神転生」は現れました。二十世紀末の東京に生きる少年たちが思想の違いによって袂を分かち、時に命を奪い合うハードな物語を、硬質なグラフィックと現代的なBGMで表現した作品です。敵として遭遇する悪魔たちと交渉して仲間=「仲魔」に加えて一緒に戦わせたり、さらには複数の仲魔をかけ合わせて新たな仲魔を作り出す「悪魔合体」システムも大きな特徴として挙げられます。というかそれがメインという声も多いです。

スピンオフ作品である「ペルソナ」などで、海外でもカルト的な人気を誇るようになったアトラスRPGの本流を決定づけたといえる本作は、時の社会問題や体制、何よりも巨大宗教を挑発するような側面が多いせいか、これまで公式に海外向けローカライズや翻訳は行われていません。

「アクマを ころして へいきなの?」とは

この度ご紹介する「ことば」、「アクマを ころして へいきなの?」の本題に入りましょう。昔のゲームだしそれなりに有名だしいいよね!と軽率にネタバレしていきますので、これからプレイされるという方はご注意ください。警告しましたよ。

さて、この言葉が投げかけられるのは、冒頭に記したような真剣な状況ではありません。幾度となく繰り返される通常戦闘の中で悪魔との交渉に持ち込むと、他愛もない雑談に交じって実に唐突に、カジュアルに問われるのです。少女や若い女性の姿をした悪魔たちのからかい半分の笑顔さえ見えてくるような気がします。

初めてこの質問を受け止めた、当時幼かったわたしは、大いにうろたえ、ためらいました。回答が「はい」と「いいえ」しか許されていないのもまた苦しいところです。

先ほどから「悪魔」と言い続けていますが、女神転生シリーズにおいて「悪魔」とは、一般に清らかな存在と考えられやすい「天使」や「妖精」などの種族から、果ては壁として立ちはだかる人間までをも包含した言葉です。彼らにも意思や目的があり、それは必ずしも主人公や人間と対立するものではありません。弱者の殺傷だけが目的の本当に邪悪な存在も含まれてはいますが、それはほんの一部。

「決して平気なわけではない。でも仕方がないんだ」

子どもだった、そしてまだこのゲームの全体像を知らなかったわたしは、悩んだ挙句そう結論づけました。
しかしそれなりに年齢を重ねた今となっては、この結論に若干の苦々しさとひどいナイーブさを感じます。なぜなら、このゲーム独特のシステムやシナリオを楽しいと思った瞬間に、そう答える権利は失われると考えるようになったからです。

主人公にとっての悪魔の「用途」

主人公は、敵である悪魔たちを仲魔にできます。これだけ聞けば今となってはさほど大きなインパクトはないでしょう。しかしその実態は、どこまでも「使役するものとされるもの」という関係です。

仲魔となった悪魔たちはどうなるのか。彼らは何らかのデータ化を施され、主人公がある人から譲り受けた「悪魔召喚プログラム」に取り込まれます。あとは主人公の命令に応じて呼び出され、命を削って戦うことはおろか、他の悪魔との合体で自身を失うことすら受け入れます。命令に背くことはありません。

しかし従属関係においては下剋上がつきもの。ここでひとつわたしの妄想の話をします。

真・女神転生シリーズにおける「ゲームオーバー条件」は、他のRPGと比べかなり厳しいものとなっています。パーティー内の人間キャラクター、今作では主人公とパートナーの2人が戦闘不能状態に陥ること、それのみです。ナンバリングタイトルによっては主人公ひとりが倒れただけで三途の川を拝む羽目になるものもあります。

主人公亡き後、仲魔たちはどうするのか。明確に描かれることはありませんが、意を汲んで戦い続けてくれる仲魔はいないのではないかとわたしは思っています。多少情のあったものでもそっとその場を後にするだろうし、力でねじ伏せられて仲魔になったものは穏やかでない手段で鬱憤を晴らそうとするかもしれません。当たり前ですが、命じるものがいなくなれば、命じられる側は解放されるのです。

ゲームオーバー画面。きれいな三途の川です。声の主は明かされません

悪魔にとっての人間の「用途」

もちろん悪魔とは、主人公が属する種族である人間にとって都合のよい存在というばかりではありません。

ゲーム開始時に主人公の友人として2人の少年が登場します。1人は法を司る神に捧げられる存在として、もう1人は己の弱さゆえに力を渇望し、魔王に魅入られる存在として。「捧げられる」「魅入られる」と書きましたが、ストーリー上は2人とも自発的にその道を選んだように描かれているのが恐ろしいところです。

真・女神転生において、舞台である東京は中盤で崩壊します。破壊し尽くされ混乱するばかりの人間たちの世界を、神は法と秩序をもって、魔王は力と自由をもって支配しようとする。本作のストーリーは大雑把に言えばそんなところですが、神や魔王が直接人間に何らかの手を下すことはほとんどありません。神は実直な性格をしていた友人を殺し、蘇生させて、救世主と演出します。魔王はいじめられていた友人に力を与えるとささやきかけ、最終的には彼を悪魔と合体させて走狗にします。

人間を支配するなら人間の手駒が必要でしょう。神や魔王のような上位の悪魔(神も魔王も本作においては悪魔です)たちは、力で劣る人間たちを計算尽くで存分に利用するのです。

主人公は、このような末路を辿る友たちとどう向き合うのでしょうか。それが本作のストーリー分岐となっています。救世主に与するもよし、魔王の使いの手助けをするもよし。どちらの勢力も拒否することもできますが、その道はきわめて過酷なものです。

良心の呵責は誠実さか

ここまで考えて、「アクマを ころして へいきなの?」に戻ります。
本作では、人間も悪魔も互いに利用し、利用される関係にあることが、ストーリーにもシステムにもそこかしこに見て取れます。両者の間に存在する共通の尺度は「力」。悪魔より強い人間は悪魔を従え、人間より強い悪魔は人間につけ込む。必要であれば己を失わせること、命を奪うことすら辞しません。

本作が特徴とするこういった要素を面白いと思ってしまったなら、そこに良心の呵責など介在する余地はないのではないか。たとえ面白いと感じられなくても、このゲームをプレイする上で自分の力を他者に向かって振るわない選択肢は取れない。

初めて問われた時から30年近くを経て、いい歳になったわたしはそう考えるようになりました。

だから今なら、迷いなくこう答えます。
「はい」


この記事は、ゲーム翻訳者であるいはらさん主催の2021年アドベントカレンダー企画、「ゲームとことば」用に執筆されたものです。




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