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「最後のページをめくるとき」第1章 ~呼び戻される家族~
登場人物
吉田雅子(70歳)
和紙に記憶を漉き込む最後の継承者。認知症の進行で、自身の記憶だけでなく、先祖代々の記憶も失いつつある。
吉田美咲(45歳)
ミステリー作家。幼少期のトラウマで和紙に触れられない症状があり、家業から逃げるように家を出た。
吉田香織(42歳)
考古学者。古文書の修復技術を学んでいるが、家伝の和紙の力を科学的に証明しようと奮闘している。
吉田健太(39歳)
神経科学者。記憶と感情の関係性を研究しているが、家伝の秘密を知らない。
佐藤明(75歳)
元神主で陰陽師の末裔。吉田家の秘密を唯一知る外部者で、雅子の守護者的存在。
呼び戻される家族
東京の喧騒から遠く離れた山間の小さな町、吉野川のほとりに佇む古い町家。その軒先に掛かる「吉田和紙」の看板は、かつての栄華を偲ばせるように風に揺れていた。
吉田美咲は、その実家の玄関前で立ち止まった。45歳になった今でも、この家に足を踏み入れることに躊躇いを覚える。幼い頃から慣れ親しんだはずの木の香りや、風に乗って漂う和紙の匂いが、今では妙に鼻につく。
「まだ来てないのかしら」
美咲は腕時計を確認しながら呟いた。妹の香織と弟の健太も、今日この家に集まるはずだった。
突然、携帯電話が鳴り、美咲は少し驚いて画面を見た。それは妹からのメッセージだった。
「ごめん、ちょっと渋滞してる。あと30分くらいで着くと思う」
美咲はため息をつきながら返信を打った。
「了解。私も今着いたところ。お母さんの様子、見てくるわ」
返信を送り終えると、美咲は深呼吸をして玄関の戸を開けた。
「ただいま」
かすかに響く自分の声に、どこか違和感を覚える。もう何年この言葉を口にしていなかっただろうか。
「お帰りなさい、美咲さん」
応えたのは、母・雅子の声ではなく、佐藤明だった。75歳になる佐藤は、地元の神社の元神主で、長年吉田家と親交のある人物だ。最近では、認知症が進行する雅子の世話を買って出てくれていた。
「佐藤さん、こんにちは。母は?」
「雅子さんは2階の寝室で休んでいます。少し前まで起きていたんですが、疲れたようで…」
佐藤の言葉に、美咲は複雑な表情を浮かべた。電話で聞いていた通り、母の状態は思わしくないようだ。
「分かりました。少し様子を見てきます」
美咲は靴を脱ぎ、懐かしくも重たい足取りで階段を上がっていった。
2階の廊下に足を踏み入れた瞬間、美咲の鼻腔をかすかな和紙の香りが満たした。その匂いは、美咲の心の奥底に眠るある記憶を呼び覚ます。しかし、美咲はその記憶を必死に押し殺そうとする。
母の寝室のドアをそっと開けると、そこには小さく縮こまるように眠る雅子の姿があった。かつては凛として美しかった母の顔に、今は深いしわが刻まれている。美咲は母の寝顔を見つめながら、複雑な思いに駆られた。
「お母さん…」
美咲の囁きに、雅子はうっすらと目を開けた。
「あら、美咲…久しぶりね」
雅子の声は弱々しく、かすれていた。しかし、その目には一瞬だけ昔の輝きが宿った。
「ごめんなさい、起こしてしまって」
「いいのよ。あなたに会えて嬉しいわ」
雅子は微笑みを浮かべたが、すぐにその表情が曇った。
「ねえ、美咲…私、何かとても大切なことを忘れているの。でも、思い出せないの」
その言葉に、美咲は胸が締め付けられるような痛みを感じた。母が何を言おうとしているのか、薄々察していた。しかし、それを認めたくない気持ちもあった。
「大丈夫よ、お母さん。きっと思い出せるわ」
美咲は優しく母の手を握りしめた。その瞬間、雅子の目に涙が光った。
「ごめんなさい、美咲。あの時、私は…」
雅子の言葉は途切れ、再び深い眠りに落ちていった。美咲は、母が何を言おうとしたのか、考えるのを避けた。
階下に戻ると、佐藤が静かに待っていた。
「美咲さん、実は重要なお話があります」
佐藤の表情は厳しく、美咲は身構えた。
「吉田家に伝わる秘密について、お話しなければならない時が来たようです」
美咲は眉をひそめた。家の秘密?そんなものがあったのだろうか。
「どういうことですか?」
「詳しくは、香織さんと健太さんも揃ってからお話しします。ただ、これだけは言えます。吉田家の和紙には、特別な力があるのです」
その言葉に、美咲は思わず苦笑いを浮かべた。
「佐藤さん、そんな冗談を…」
「冗談ではありません」
佐藤の真剣な眼差しに、美咲は言葉を失った。
そのとき、玄関のチャイムが鳴り、香織と健太が到着したことを告げた。
美咲は深呼吸をして玄関に向かった。扉を開けると、そこには久しぶりに見る妹と弟の姿があった。
「お姉ちゃん、久しぶり」
香織が優しく微笑みかけてきた。42歳になった香織は、考古学者として世界中を飛び回っている。その目には、いつも冒険心と知的好奇心が宿っていた。
「よう、姉さん」
健太も軽く手を挙げて挨拶した。39歳の健太は、神経科学者として大学で研究を続けている。知的な雰囲気は昔のままだった。
「お母さんの様子は?」
香織が心配そうに尋ねた。
「今は眠っているわ。でも…」
美咲は言葉を濁した。母の状態をどう説明すればいいのか、迷っていた。
「分かった。後で様子を見に行くよ」
健太が静かに言った。彼の表情には、科学者特有の冷静さが感じられた。
三人が居間に集まると、佐藤明が静かに入ってきた。
「皆さんお揃いですね。では、お話しましょう」
佐藤の声には、ある種の覚悟が感じられた。
「吉田家は、千年続く和紙職人の家系です。しかし、それだけではありません」
三人は息を呑んで佐藤の言葉に耳を傾けた。
「吉田家の和紙には、不思議な力があるのです。家族の強い感情や重要な記憶を和紙に漉き込むことで、後世の人々がその和紙に触れた際に、その記憶や感情を追体験できるのです」
一瞬の沈黙の後、健太が口を開いた。
「佐藤さん、それは科学的に証明されているんですか?」
「いいえ、この秘密は代々厳重に守られてきました。科学の目にさらされることはありませんでした」
今度は香織が疑問を投げかけた。
「でも、なぜ今そのことを私たちに?」
佐藤は深くため息をついた。
「雅子さんの認知症が急速に進行しています。彼女は、この特殊な技術を完全に習得した最後の継承者なのです。彼女の記憶が失われれば、この千年の歴史も消えてしまう…」
美咲は黙って佐藤の話を聞いていたが、突然立ち上がった。
「私には信じられません。そんな荒唐無稽な…」
「お姉ちゃん、落ち着いて」
香織が美咲の腕を優しく掴んだ。
「確かに信じがたい話だけど、佐藤さんにはウソをつく理由がないでしょう」
健太も冷静に状況を分析していた。
「仮説を立てて検証する必要がありますね。この現象が本当だとすれば、科学的に非常に興味深い」
美咲は再び椅子に腰を下ろした。頭の中が混乱していた。もし本当なら、自分が今まで避けてきたものの正体が明らかになるかもしれない。そう思うと、恐怖と期待が入り混じった複雑な感情が湧き上がってきた。
「では、その和紙はどこにあるんですか?」佐藤に問いかけたのは香織だった。
「雅子さんの指示で、長年封印されていた蔵にあります。そこには、年代順に整然と並べられた古い和紙の束が保管されているはずです」
「早速確認しに行きましょう」健太が提案した。
しかし、美咲は躊躇していた。
「私は…和紙に触れられないの」
三人の視線が美咲に集中した。
「どういうこと?」香織が優しく尋ねた。
美咲は深呼吸をして、長年隠してきた事実を告白した。
「幼い頃のある出来事から、和紙に触れられない症状があるの。それで…家業から逃げるように家を出たんだ」
美咲の告白に、部屋は静寂に包まれた。
「そうだったんだ…」健太が静かに呟いた。「僕たちは知らなかった」
香織が美咲の手を握った。「大丈夫よ、お姉ちゃん。私たちが一緒にいるから」
美咲は妹の優しさに、涙が込み上げてくるのを感じた。
佐藤が静かに言葉を継いだ。「美咲さん、あなたのトラウマには理由があります。それは、きっと和紙に込められた強い感情や記憶と関係しているのでしょう」
美咲は目を閉じ、深く息を吐いた。「分かりました。蔵を見に行きましょう」
四人は立ち上がり、庭を横切って蔵へと向かった。蔵の扉は長年開けられていないようで、錆びついていた。健太と佐藤が力を合わせてようやく開けると、埃っぽい空気が流れ出てきた。
中に入ると、そこには美咲たちの想像を遥かに超える光景が広がっていた。棚には無数の和紙の束が、年代順に丁寧に並べられていた。その数は千年分にも及ぶようだった。
「これが…吉田家の歴史」香織が畏敬の念を込めて呟いた。
健太は興味深そうに和紙を観察していた。「これらの和紙、普通のものとは明らかに質感が違う。何か特殊な製法があるのかもしれない」
美咲は蔵の入り口で立ち止まったまま、中に入ろうとしなかった。その様子を見た佐藤が静かに語りかけた。
「美咲さん、あなたには特別な役割があります。吉田家の血を引く者として、この秘密を守り、継承していく使命が」
「でも私には…できません」美咲の声は震えていた。
そのとき、2階から物音が聞こえた。
「お母さんが!」
香織が叫び、皆で急いで家に戻った。
2階に駆け上がると、雅子が必死に何かを伝えようとしていた。
「和紙…大切な…忘れちゃいけない…」
雅子の目は涙で潤んでいた。美咲は母の傍らに駆け寄り、その手を握った。
「お母さん、私たち、分かったわ。和紙のこと、家の秘密のこと、全部」
雅子はホッとしたような表情を浮かべ、そっと目を閉じた。
美咲は、長年抱えてきた感情が溢れ出すのを感じた。和紙への恐怖、家族への複雑な思い、そして失われゆく母への愛情。それらが全て混ざり合い、大きな決意となって心の中で形作られていった。
「みんな」美咲が家族に向かって言った。「私たちにしかできないことがあるわ。この千年の歴史を守り、そして新しい時代に繋げていく。それが、私たちの使命なんだと思う」
香織と健太は頷いた。三人の目には、同じ決意の色が宿っていた。
佐藤は静かに微笑んだ。「吉田家の新しい章が、今始まろうとしています」
窓の外では、夕暮れの空が赤く染まり始めていた。その光が部屋に差し込み、雅子の寝顔を優しく照らしている。美咲、香織、健太の三人は、母の周りに集まり、静かに見守っていた。
佐藤が静かに部屋を出て行き、しばらくして和紙と筆を持って戻ってきた。
「雅子さんが元気なうちに、最後の和紙を漉いておくべきだと思います」佐藤が静かに言った。「彼女の記憶と想いを、和紙に込める必要があります」
三人は顔を見合わせた。健太が口を開いた。
「でも、お母さんの状態を見れば、それは難しいんじゃないですか?」
佐藤は頷いた。「確かに、雅子さん一人では難しいでしょう。しかし、私には考えがあります」
彼は三人に向かって説明を始めた。「吉田家の和紙に込められる記憶や感情は、漉き手だけのものではありません。家族全員の想いが集まって初めて、真の力を持つのです」
「つまり、私たち三人で…?」香織が尋ねた。
「そうです」佐藤は頷いた。「あなたたち三人が、それぞれの想いを込めて和紙を漉くのです。そして、雅子さんがそれに触れることで、最後の仕上げをする。そうすれば、吉田家の記憶は完全に保存されるはずです」
美咲は躊躇した。「でも、私には和紙に触れられない…」
「お姉ちゃん」香織が優しく美咲の手を取った。「一緒に乗り越えましょう。私たちがいるから」
健太も頷いた。「そうだよ、姉さん。僕たち三人で力を合わせれば、きっとできるはずだ」
美咲は深く息を吐いた。そして、決意を固めたように頷いた。
「分かったわ。やってみる」
佐藤は満足げに微笑んだ。「では、準備をしましょう」
四人は静かに部屋を出て、かつての工房へと向かった。長年使われていなかった工房は、埃にまみれていたが、それでも道具たちは昔のままの位置に置かれていた。
佐藤の指示のもと、三人は和紙を漉く準備を始めた。水を張り、原料を溶かし、簀桁を用意する。その作業の中で、三人はそれぞれの記憶を思い返していた。
美咲は、幼い頃に母から教わった和紙作りの基本を思い出していた。あの頃は、和紙に触れることが何よりも楽しかった。しかし、ある日を境に全てが変わってしまった。その記憶が蘇ろうとすると、美咲は首を振って払いのけた。
香織は、学生時代に古文書の修復を学んだ時のことを思い出していた。その時は、自分の家系の和紙がこれほど特別なものだとは知らなかった。しかし今、その知識が役立とうとしている。
健太は、神経科学の研究を通じて得た、記憶と感情の関係性についての知見を思い返していた。もし本当に和紙に記憶を込められるのなら、それは科学的にどのように説明できるのだろうか。その疑問が、彼の研究者としての好奇心を刺激した。
準備が整うと、佐藤が三人に向かって言った。
「では、始めましょう。まず、それぞれの想いを心の中で形にしてください。そして、その想いを込めながら、和紙を漉いてください」
美咲は深呼吸をした。手が震えそうになるのを必死に抑えながら、簀桁を水に浸した。
「お母さん…私は…ごめんなさい」
心の中でそう呟きながら、美咲は原料を広げていく。長年避けてきた感触が、懐かしさと共に手に伝わってきた。
香織は、考古学者としての知識を総動員しながら、丁寧に作業を進めた。
「私たちの歴史、そして未来。全てをこの和紙に…」
健太は、科学者らしく冷静に、しかし心を込めて和紙を漉いていく。
「この不思議な現象を、いつか科学で解明してみせる」
三人の想いが、少しずつ形になっていく。佐藤は黙って見守っていたが、その目には感動の色が浮かんでいた。
作業が終わり、三枚の和紙が出来上がった。それぞれに、漉いた人の想いが染み込んでいるようだった。
「素晴らしい」佐藤が静かに言った。「では、最後の仕上げです」
四人は再び雅子の部屋へと向かった。雅子はまだ眠っていたが、三人が近づくと、うっすらと目を開けた。
「みんな…来てくれたのね」
雅子の声は弱々しかったが、どこか安堵の色が感じられた。
佐藤が三枚の和紙を雅子の前に広げた。
「雅子さん、最後のお仕事です」
雅子はゆっくりと身を起こし、和紙に手を伸ばした。その瞬間、部屋の空気が変わったように感じられた。
雅子の指が和紙に触れると、かすかな光が宿ったように見えた。美咲、香織、健太は息を呑んで見守っていた。
数分後、雅子はゆっくりと手を離した。そして、穏やかな笑顔を浮かべて三人を見た。
「ありがとう。これで…私の役目は…終わったわ」
そう言うと、雅子は再び目を閉じた。しかし、その表情は安らかで、まるで大切な仕事を終えた後の満足感に満ちているようだった。
佐藤が静かに三枚の和紙を集め、丁寧に畳んだ。
「これで、吉田家の記憶は守られました。そして、新しい時代への扉が開かれたのです」
美咲、香織、健太は、言葉にならない感動と使命感に包まれていた。彼らの前には、千年の歴史を受け継ぎ、そして未来へと繋げていくという大きな課題が横たわっている。しかし同時に、家族の絆を再確認し、新たな一歩を踏み出す希望も生まれていた。
窓の外では、夜空に最初の星が瞬き始めていた。それは、吉田家の新しい物語の始まりを告げているかのようだった。
美咲は静かに呟いた。「これから、私たちにしかできないことがたくさんありそうね」
香織と健太は頷いた。三人の目には、決意と期待が宿っていた。
佐藤は満足げに微笑んだ。「吉田家の新しい章が、今始まったのです」
こうして、「呼び戻される家族」の章は幕を閉じた。しかし、これは終わりではなく、新たな始まりだった。吉田家の和紙に込められた千年の記憶と、そしてこれから紡がれていく新たな物語。それらが交錯する中で、美咲たち三人の挑戦が始まろうとしていた。