【素敵な船旅を願う】 絵描きのエッセイ
ある日、友人から連絡が来た。長年一緒に過ごしてきた恋人と別れを迎えたらしい。私は彼女に電話をしようと伝え、泣きながら話す言葉に耳を傾ける。長い時間二人で話をして最後は少しだけ明るい声を聞くことが出来た。きっとしばらくは、彼女の涙は止まらなくて苦しいだろう。でもそれは愛があった証でもある。
彼女と私は20年以上の付き合いになるけれど、お互いある程度大人になってしまった。だからこそ分かることも増えた。
どんなに心から好きだったとしても、10年後には彼のことで泣くことは出来なくなってしまう。無理に新しい恋愛で痛みを埋めようとしないで、ちゃんと好きだったのなら、彼を想って悲しんで泣くことが出来る間は、しっかり悲しんで泣いた方が良い。それは今しか出来ないことだから。そんな事を彼女に伝えた。
彼女がどれくらい胸を痛めたか、私には全てを理解することは出来ないし、全てを分かち合う事はできない。なぜならそれは、本人だけが全部を見てきた大切な物だからだ。でも、彼女が悲しかったことや彼を想って涙を流した事を、ちゃんと私は知っている。そんな彼女を知って私も胸が痛かった。ただそれだけのことだけれど、それが私なりの大切な友人への気持ちだ。
私には曖昧な距離の友人が多い。それは別に悪いことではなくて、顔を合わせれば気軽に挨拶をするし、他愛もない話で笑い合ったりもする。「いつもの場所でよく会う顔馴染み」という表現の方が、結構好きだったりする。
割と誰に対しても、気が合ったり何度も顔を合わせれば、人に紹介する時に友人として紹介したりもする。それぞれが行きたいと思った場所に、ふらっと同じタイミングで行き、ばったり出会う。そういう野良猫みたいな付き合い方が心地良い。
その積み重ねで、いつの間にか友人の深さが変わったり、いつの間にか仲間になったり、そんな繋がり方が素敵だなあと思っている。
昔から心から友人と言える相手は、片手に収まるほどしかいなくて、そういった人とはもう長い付き合いがほとんどなのに、頻繁に連絡を取ったり会ったりもしない。
けれど久しぶりに会えば、いつも会っているような感覚だったり、急に深い話を始めたり。ここぞという時にはそばにいて、お互いの笑顔を心から願い続けてる。何かを間違えたり転んでしまったとしても「ばかだなあ」と笑いながら背中を支えたいと思う。
私は小学生の頃から「親友」という言葉が嫌いで、シーズン毎に配役が変わっていたり、知り合って間もないのに決めたり、親友が大勢いる人を、あまり私は信用していない。
今まで「私たち親友だね」と言われることが何回かあったけれど、首を縦に振ったことはない。言われる度に少しの違和感を感じたり戸惑いながらも、嬉しい気持ちで照れて、でもしばらくして期待に添えないことがあると、背中を向けられる事が多かった。ティッシュよりも軽い特別枠なら、私をその枠に収めようとしないでほしい。
気心知れた顔馴染みが沢山いて、心から友人と言える人が数人いて、特別な人が一人二人いれば、それだけで充分幸せ者じゃないかと思う。
大切なものは気づかない内に宝物になっているし、「君は僕の特別な宝物だよね?」と確認しなくても、流れる時間や一緒に過ごす温かさの中で、お互いに特別になっていくもの。宝物を自分だけの物として縛るのか、自分にとって特別な宝物だからこそ自由にするのか。
私は私の大切な人には、私と一緒にいる時も、一緒にいない時も、笑っている時間が沢山あると良いなあと思っていて、嬉しいことや悲しいことがあった時に、ふらりと船を着けられる港のような自分でありたい(開港していない時もあるけどね。)
私の大切な友人が、笑顔でまた素敵な旅に出れる日を見届けたい。