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他人の靴と自分の正義の話

今回の読書感想文の課題図書ではないのですが、ディスカヴァー・トゥエンティワンから出ているこの本は私も持っていて、結構前に出たやつと記憶しています。

私も、と言ったのは、つい先日こちらの記事でこの本が紹介されていたのを見たからです。

こちらの記事で書かれている感想が、昔この本を読んだ自分の感想に似ていたので興味深く拝見しました。記事内では、本から2つの言葉が引用されていました。

どうして自分を責めるんですか?
他人がちゃんと必要なときに責めてくれるんだから、
いいじゃないですか。

こちらについては、私も非常に印象に残っていて、おおむね筆者様と同じ感想を持ちました。

人はみな、自分の靴のサイズで物事を計る

についても、大いに共感する感想でしたが、実は、私は少し違う解釈をしました。それを説明してみたいと思います。

人はみな、自分の靴のサイズで物事を計る

この言に対する私の解釈は、こうです。

人はみな、自分の見たいように物事を見て、判断(批評)する

人が何かを判断するときの基準は、自分がこれまで経験して来たことや、見聞したこと、つまり内在化した情報によってなされます。自分の足にぴったりと合う靴を履いて、他の誰だってその靴が一番心地よいと感じるに決まっている、と考えるわけです。

しかし、もちろん足の形やサイズは千差万別で、それぞれにそれぞれの靴があります。社会生活を円滑にするために、フォーマルな靴とかスニーカーとかサンダルとかいろいろとカテゴライズはしていますが、履いているうちに中敷が自分の足にフィットして来て、今自分が履いている靴こそが、あなたにとって「一番いい靴」になることでしょう。しかし、当たり前ですがその靴が他の人にとっても心地よいとは限りません。

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靴に例えればこんなに明快なのに、人はどうしても自分の靴を他人に履かせようとしたり、他人が大切にしているその靴を自分の足に合わないからといって簡単に吐き(履き)捨てたりするようなことをしてしまいがちです。

おそらく、自分の足に感じる心地よさには強烈な現実感があって、そのことを否定することにどうしても納得ができないのでしょう。しかし、あなたの靴は、あなたの「正義」に過ぎないわけで、それを振りかざしても共感は得られません。正義の主張が、往往にして傲慢さを伴うのは、そういうことでしょう。

では、傲慢な正義を振りかざさないためには、どうしたらいいのでしょうか。

あなたは、裁判官ではない

それは、いうまでもなく自分と他者は違うという前提をメタ的に知ることです。

自分は、目の前のこの人が生きている世界について1%もわかっていない、という前提で接すれば、軽々しくジャッジなんてできません。若者が電車で席を譲らないことに対して、簡単にその若者をジャッジできないのです。そうであるにもかかわらず、テレビに出ている有名人や、インターネットでニュースになった人に対して、批判的コメントが殺到するのはなぜでしょうか。

それは、インターネットの技術的発展がコメントをすることの障壁を著しく低くしたからだけであって、それが「一般的に正しいこと」だからではありません。あなたの見られる範囲で、知りうる範囲でその人は「間違っている」のかもしれませんが、あなたが想像もできない状況を抱えて生きているのかもしれないその人を、「正しく評する」ことなど不可能です。

「この人は、自分の想像もつかない情報を抱えて日々を生きているのかもしれない」

人をジャッジしそうになったらまずそう問うてみる。そういえば、こちらの記事でも同じようなことを言われている方がいました。

しかし、ことはそんなに単純ではない

ここで終われば、めでたしめでたしだったのですが、面白いのはここからです。

論をここからひっくり返します。想像力を持って、他人の立場に立ち、他者に寛容になることが、害になる状況があるといったら、驚くでしょうか。

同じディスカバー・トゥエンティワンの本で、こんな本がありました。

「あなたは、裁判官ではない」という言は、この本から取ったものです。中学生くらいの時に読んだと記憶していますが、以来、私はできるだけ人を軽々しくジャッジしないように生きてきたつもりです。

人をジャッジしないことは、知らず知らずのうちに「私の正義」になってきました。これが行き過ぎると、実は全てが「両論併記」になってしまうのです。それはつまり、自分の「ポジション」を明らかにしないということです。

It's up to you 

私は現在海外で生活していますが、こちらでは「あなたはどう思う?」と聞かれることが日本と比べて桁違いに多いと感じます。医者にかかっても「あなたはどう思う?」就職の面接でも「あなたならどうする?」仕事をしていても「It's up to you(あなた次第だよ)」

自分は、世界の1パーセントも把握していない。そのことを重々わかった上で、それでも、他でもない「自分が」判断をしなければならないときがある。多分間違えます。そして、そのことにより、自分も偏見に満ちた批判を浴びます。それでも、それを織り込み済みで、甘んじて判断をし、それを表明しなければならないときがある。

誰かを、あるいは誰かに属する何かを批評することは、このように自分がその生身を同質の批評にさらす危険が伴っていなければフェアではありません。

選挙に投票することなんてその典型かもしれませんね。自分が投じた一票は、回り回って自分の子孫の住む世界にも影響を与えるかもしれません。世界のことを1パーセントもわかっていない自分の意見に基づいて、投票をするわけですから、それが本当に正しいことなのかは、あとからわかることです。

だからといって、それを理由に投票から逃げてしまえば、それが最も無責任な振る舞いということになります。誤謬があるとわかっていても、あなたはそのとき持っている情報で、できる最善の判断をするしかありません。

重要なのは、自分が判断をするべき時と、判断をしてもそれを表明するべきでない時を見極めることです。難しく聞こえますが、実は簡単なことです。

自分がその判断から逃げ出したくなったら、それは自分が判断をするべき時で、

短く批判的なコメントをどこかに書いたり、人に言ったりしたくなったら、それはその表明を控えるべき時、です。

あなたはどう考え、行動しますか。

"It's up to you!"


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