「負い目」の清算としての「党派」

 〈焼き畑〉コースは「革命闘争」を退ける。〈焼き畑〉コースは、それぞれ個別の問題に対して「当事者」として闘われる闘争を支持しつつ、それに取り組むような「当事者」としてのアイデンティティを持てない者に可能な「運動」を提示することを目指す。その際、マルクス主義あるいはマルクス=レーニン主義(以下、単に「マルクス主義」)のような「革命闘争」モデルに依拠しない。以下では、〈焼き畑〉コースが「革命闘争」を退ける理由を部分的に述べつつ、「革命闘争」と個別的な諸闘争の関係について論じる。

 まず、ここで言う「革命闘争」とは、社会問題を根源的な一つの「巨悪」に還元し、その「転覆」を自分たちの手で実現しようとするものである。必ずしもマルクス主義運動にその意味を限定しないが、冒頭に述べたようにマルクス主義運動を念頭に置いている。一方、〈焼き畑〉コースは、マルクス主義運動だけでなく、同型の「革命闘争」一般に否定的である。
 「革命闘争」は、「個別の」問題に対する闘争を「反革命的」なものとして批判する。それは個別的な闘争が、根源的な「巨悪」の転覆を目指さない「表面的」なものであり、「革命闘争」勢力の絶対数を削ぎ、また場合によっては革命の条件が万全になるのを妨げるからである。
 「革命闘争」に取り組む者が個別の問題に取り組むこともあるだろうが、「革命闘争」は原理的には個別の問題の解決を目指すのではない。あくまで「革命的意義」に照らして個別の闘争に関わったり関わらなかったりするだけなのである。
 革命は起こったり起こらなかったりするもので、「起こす」ことはできないという立場の場合、原理的にも革命と個別的な闘争は(必ずしも)矛盾しない。私はそのような立場を、闘争とは革命のために行われるべきであるという倫理的強迫を伴った「革命闘争」とは区別することとしたい。革命を待ち望む精神性それ自体は、「革命闘争」の定義からは排したいのである。私自身、革命は起こったり起こらなかったりするという立場である。
 そもそも「革命的」であること(だけ)がよいことであるという評価基準自体が「革命闘争」独自のものである。当たり前のことだが、市井の人々にとって「革命的」かどうかは問題ではない(かといって、〈焼き畑〉コースは「市井の人々」にも依拠しないが)。それは人々が「巨悪」の存在に気づいていないからにすぎない! というのが「革命闘争」の理屈だが、当然ながら、それが本当に「巨悪」である可能性や、「巨悪」を除いた「革命後」の世界がこれまでの世界より良い(評価基準もまた変わるわけだが)保証はないのである。
 問題はそのような「巨悪」や「ユートピア」が幻想であるということではない。そのような来るかどうかもわからないし、本当に「ユートピア」をもたらすかどうかもわからない「革命」のために命を懸けさせることが、「革命闘争」にはできてしまう、ということが問題なのである。
 これが原理的な「革命闘争」の姿である。これを踏まえたうえで、それでも「革命闘争」を選ぶのか、それ以外の道を模索するのかが選択されるべきである。私は、「革命」に命は懸けられないし、そもそも私という存在より素晴らしいものがあるとは思えないので、命を懸けたくもない。

 「革命闘争」の言い分は、「お前たちの苦痛は我々が革命によって解決してやるから、お前たちも今やっている自己中心的な運動は止めて、我々の党に結集せよ!」というものである。「革命闘争」において、諸問題はすべて一つの根源的な「巨悪」に還元されるのだから、その転覆を図る組織は一つでいいはずである(組織としては複数であってもいいが、その場合もそれらが掲げるイデオロギーは高次に統一されているはずである)。ここに党派が出現する。
 党派全体の表面的な雰囲気に「革命闘争」の姿が表れないこともある。ここまで述べてきたような意味での「革命」とは(一見)関係のなさそうな個別的な闘争に取り組んでいる場合がそうである。そういう場合でも、幹部クラスの党員は原理的な「革命闘争」支持者であるし、そうでないなら、「革命闘争」という旗を降ろせばいいのである。運動が党派として存在し、それが「革命闘争」を捨てていない以上、その党派が取り組むいかなる個別的な闘争もそれが「革命的」であるからそうしているにすぎない。いや、「革命的」かどうかと関係なく闘争に取り組んでいくというなら、「革命闘争」という理念を下ろすべきである。
 裏に党派がいるからよくないという露悪・冷笑のネトウヨの言い分と同じように聞こえるかもしれないが、ここで私が言っているのは、それぞれの問題の解決を目的とした個別的な闘争と「革命」を目的とした党派は原理的に共存しえないということである。一応繰り返しておけば、革命は起きたり起こらなかったりするという立場は「革命闘争」の定義に含めない。

 とはいえ、やはりイデオロギーの如何に関係なく実際に闘争を行なっているほうが偉い、とも言えるだろう。それはそうだろう。私も諸闘争に取り組む方々には敬意を払っているつもりだ。しかし、イデオロギーが違うならば、単に「共闘」すればいいのであって、党派に入る必要はないのである。
 個別の諸闘争を「持続可能」にするものとして党を肯定し、それに加入する場合がある。現実には確かに党派の力によって継続されてきた闘争はある。しかし、原理的には党は「革命的意義」に照らしてそれぞれの諸闘争に取り組んでいるにすぎない(再三述べておけば、そうでないなら「革命」の看板を下ろすべきである)。ある闘争を続けていくことを可能にするものとして党を肯定しても、「革命的意義」に照らしてその闘争が切り捨てられることがありえ、また、別のある闘争は「革命的意義」に照らして「反革命」と規定されるかもしれない。
 闘争の持続に組織が必要だとしても、それが既存の党派である必然性はない。既存党派以外にその闘争に取り組む組織がなければ、自分たちで作ればいい。作ればいいとは言うのは簡単であり実際に組織を立ち上げるのは困難なことかもしれないが、それなら今度は自分ひとりでもできることのみを行なうべきであると私は考える。この闘争において味方をしてくれるなら誰でもいいというリアリズムは、その問題に関して抑圧を受けている者のみが持つべきものである。
 実際に闘争に参加していることが偉いのは確かだとしても、それ「のみ」を評価軸としてしまうと、闘争を継続している(単に事実としてそうであるにすぎない)党派の言っていることに違和感を覚えたとしても、それに従わないことはできなくなる。ある問題において見解の一致する党派に対しては、それをめぐる闘争においてのみせいぜい「敬意」を払い「共闘」するにとどめるべきである。

 以上では、主に個別の闘争と「革命闘争」モデルの関係に焦点を絞って論じたつもりだが、私は他にもいくつかの理由で「革命闘争」モデル自体がグロテスクなものであると感じている。党派に加入するという選択も、その「革命闘争」の理屈に巻き込まれるということであると認識したうえで行なわれるべきものである。
 にもかかわらず、闘争に参加していなかった「負い目」から党派を正当化し、それへの「拝跪」を進めていくケースも見受けられる。党派の本質は諸闘争の持続ではなく、「革命闘争」の持続である。
 まあ、ここで「空理空論」を述べ立てている私より、現実に闘争に勤しむ党派のほうがはるかに信用に足る存在かもしれない。しかし先述した通り、現実に闘争に参加した者の発言を、その「戦歴」ゆえに重みがあるということにしてしまうと、いよいよ闘争を現実に継続させてきた党派の指令が絶対のものとなってしまう。「戦歴」のみで発言の価値が計られるべきでないことは確かだ。


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