アクタ・エンジニアリング
別の稿にも書いたように, アナキテクチャ (anarchitecture) では対象となるソフトウェアや建造物や製品と同時に, モデル (model) を提示します.モデルは, その対象を作るひと, 使うひとが対象の世界を触るやり方やその手掛かりとなるものです.
ここでは, そのモデルの一つの例として, アクタ・エンジニアリング (actor engineering) という考え方を紹介します.
アクタ (actor) は, 「行為 (act) する者」という意味でこの言葉を使っていますが, 場合によっては, 何らかの台本 (script, scenario) に従って演技する者と考えてもいいかもしれません.
アクタとして考えられるのは, ひとや組織はもちろん, 動物やモノ, ソフトウェア, 概念, コトバ, 存在, 非存在など, およそ想像し得るもの (と想像し得ないもの), 何でもありです.わたしたちは, それを次のような標語で表します.
アクタとは, ありとあらゆるものすべてと, ありとあらゆらないものすべてを合わせた, ありとあらゆるものすべて
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エンジニアリング (engineering) と言えば, 普通は電気工学や建築工学などを想像するかもしれませんが, ここではより広く, 「(いきいきと) 生きるためのわざ (技, 業, 芸, 術, …)」なら何でもいいことにします.その中には, 今で言う「ソフトウェア」も「建築」ももちろんありますが, 思いも寄らないないようなわざもあるかもしれません.
エンジニアリングとは, アクタがいきいきと生きるためのわざのすべて
ただし, アクタ・エンジニアリングが対象とするのは, すべて「アクタ」です. そして, 無数のアクタが擬因果関係 (quasi-causal relation) を通じてつながり合っているものとします.
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それぞれのアクタは, 行為します. 行為は, 周囲に影響を与えます. 周囲のアクタは, その影響を受けます. 影響を受けたアクタは, それを解釈します. 解釈したアクタは, その結果として行為します. このようなつながりを, 擬因果関係と呼びます. 普通に科学的に考えられる因果関係よりもゆるい, 因果もどきのようなものです.
アクタとアクタの間の擬因果関係からグラフを作ることができます. これをアクタ・グラフと呼びます. アクタがグラフの頂点 (vertex) に, 擬因果関係がグラフの辺 (edge) に当たります.
グラフには, 次のようなさまざまな種類がありますが, アクタ・エンジニアリングでは, そのときどきに応じて, 適した種類のグラフを使います.
辺に方向性を考えるかどうか
辺, あるいは頂点にラベルを考えるかどうか
辺, あるいは頂点に重みを考えるかどうか
同じ頂点間を繋ぐ複数の辺を区別して考えるかどうか
辺, あるいは頂点に属性を考えるかどうか
辺, あるいは頂点をさらにグラフに分解して考えるかどうか
辺, あるいは頂点の濃度はどの程度か
循環を許すかどうか
アクタ・エンジニアリングの世界は, アクタ・グラフの世界です. アクタ・エンジアリングとは, アクタ・グラフを作り, アクタ・グラフを育て, アクタ・グラフを観察し, アクタ・グラフの中で, アクタ・グラフとともに生きる, エンジニアリングということになります.
アクタ・グラフについて, もういくつか話しておきたいことがあります.
まず, アクタ・グラフは本質的に巨大です. わたしたちは, 常にその小さな部分について見て考えることしかできません.
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そんなに巨大なものなので, アクタ・グラフ全体を見渡すことができるような「神の目」を持つこともできません.
逆に, アクタも擬因果関係も, それ自身がアクタ・グラフです. つまり, 近寄って見てみると, どこまで行っても小さな入れ子のアクタ・グラフが現れるということです. 最小単位のアクタとか, 最短の擬因果関係というものは存在しません.
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(上の段落は, 暫定的な説明です. それぞれの入れ子関係は, アクタ・グラフに本来的に備わっているものではなく, それぞれのアクタが周囲を見るときに, それぞれのタイミングで生起する, 仮のものです. 以下のバラグラフは, 別の説明の仕方です)
アクタ・グラフを見るわたしもあなたも, 自身がそのアクタ・グラフの中に埋め込まれています. そんなわたしたちが知ることができる他のアクタは, ごく身近なアクタたちだけです (身近のアクタがいつでも全部見えるわけでもありませんが).
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わたしたちが見るアクタ・グラフは, 多くの場合「素の」(つまり擬因果関係だけでできた) グラフではありません.
素のアクタ・グラフを台とすると, その台自体は同じだとしても, さまざまな構造が, 見るアクタ, 見るタイミングに応じて, その台の上に, 立ち現れ, 消えゆきます.
あるアクタがあるときに見る台上の構造は, 別のアクタが別のときに見る構造とは異なり, それらが両立的であるとも限りません.
例えば, 複数のアクタが一つのアクタとして見えるかもしれません.例えば, あるアクタとあるアクタは別の階層に属しているように見えるかもしれません.
もっと一般的に, 擬因果関係以外のアクタ間の関係が現れたり, 消えたりするごとに, 元の擬因果関係ではない, それらの関係に基づいてアクタたちを見てしまうでしょう.それらの擬因果関係以外のアクタ間の関係は, アクタ・グラフには存在せず, アクタ・グラフを見ているアクタが持つモデルなのです.そして, この世界にはアクタしか存在しませんから, そのモデルもアクタのひとつということになります.
これだけでは抽象的過ぎて, 何が何だか分からないかもしれません. 次にもう少し具体的な例題を考えてみましょう.
(その前に「モデルを介して (世界に) 触る」を読んでください)