見出し画像

西村くんへ返事。『アラバマ物語』感想

西村くんへ。小寺です。映画『アラバマ物語』の感想です。西村くんからの振りもありましたので、ぼくは、大変印象的なオープニング・クレジットについて書きますね。なお、すでに自分のFacebookページに投稿済みの感想文を手直しただけものですが、どうぞご勘弁を。

(以下、ストーリー内容についての明らかなネタバレはありませんが、シーンやセリフに対する個人的な解釈をあれこれ記していますので、映画を未鑑賞の方でこれから新鮮な気持ちで鑑賞したいと考えておられる方は、閲覧要注意かもしれません)

・・・・・・・・・・・

オープニングクレジットでカメラが映し出す映像の、何と味わい深いこと。

カメラは、映画本編の中盤以降でその存在の意味が明かされることになる「ある小箱に収められたいくつもの小物たち」にぐうっとクローズアップした状態で、ゆっくり舐めるように視線の水平移動を続けてゆきます。

小さな人形、壊れた時計、クレヨン、ペン、コイン、ガラス玉–––––。次々にフレームイン/アウトする何気ない小物たち。

その移動ショットの一番最後。アウトフォーカス状態で画面の右外から徐々にフレームインしてきたのは、一つの「笛」(ホイッスル/whistle)。

その笛が画面中央にすっと収まったところで、カメラは視線の移動を静かに止める。と、笛へすーっと柔らかくフォーカスイン。で、ちょうどその合焦と同期するように、音楽監督であるElmer Bernstein氏のスタッフ・クレジットの文字がフェードイン。

おお。おしゃれ。「笛=音を出すモノ」の映像と「音楽監督=音をつけるヒト」のクレジットを重ねてみせる。なるほど。

いや、でも、ちょっと待てよ……。

本当にただそんな小洒落た演出のためだけに、この大変美しく印象的で、かつ意味深長に撮影されたクローズアップショットの最後(終点)を飾る被写体に「笛」が選ばれたのか? この「笛」にはもっと他に何かとても大切なことが象徴されているのではないか–––––。ぼくはそのことがとても気になってしまいました。

そして、本編すべてを鑑賞し終えたとき、ぼくは以下のようなことに思い至りました。

なるほど。その「笛」すなわちホイッスル=whistleは、単に「音を出すもの」としてのwhistleじゃないんだな。それは「笛」であると同時に「鳥のさえずり」という語義でのwhistleでもあり、また「警笛」としてのwhistleでもあるに違いない、と。

この映画の原題は「To Kill a Mockingbird」。直訳すれば「(美しくさえずる)マネシツグミMockingbirdを殺すってことは–––」。

物語の最終盤で、主人公である7歳の女の子・スカウトは、あることで混乱し苦悶する弁護士の父親に向かって、幼いながらもまっすぐに、父を諭し質すかのように、こう言います。

「ねえ、美しい声でさえずるMockingbirdを殺すことは〈罪〉なんでしょ?」。

まだ鑑賞していない方にネタバレするのは避けたいので、その少女と弁護士の父が具体的に何についての話をしているのかはここには書きませんが、少女が放ったその声は、それ自体が、矛盾や哀しみで混沌とした世界に放たれる清澄な小鳥の〈さえずり声=whistle〉にように響きました。

そしてそれは、小さなものの声として無邪気に放たれたものであるがゆえに、人に「人間らしくあることの何たるか」を深く気づかせ、道を踏み外さないよう注意を促す〈警笛=whistle〉でもあるのだな、とぼくには思われました。

(加えていうならば、この少女が愛称として「スカウト=Scout」、つまり、戦場において敵の状況や地形などを誰よりも先んじて探り見、その様子を本隊に〈告げ知らせる〉役割である「斥候」という名で呼ばれていることも、なにか象徴的に感じられたのでした)

この映画(と原作)は、1930年代のアメリカ合衆国におけるレイシズムや偏見の存在、それが生む様々な苦しみ、哀しみ、また人間が抱え込んだ矛盾を提示し、そして問います。

人間が本当に戦う(fight)べき相手は何モノなのか。本当に恐れるべきものは何なのか。たくさんの矛盾や、けっして一筋縄ではいかない「正義と不正義」の絡み合いのなかで、人間が本当に打ち勝た(overcome)なくてはならないことは何なのか。「人と人とが共にある」ということは、どうあるべきか。

西村くんが感じたのと同様にぼくも、この映画はたくさんの大切なことを静かに“告げ知らせ”てくれる、とても良い作品だな、と思いました。

・・・・・・・・・・・

で、さて、この映画の公開から早58年を経た現在、人々の間の差別や偏見や不信、それが生みだす怒りと哀しみの状況はどうなっているかといえば–––––本当に悲しいことですけれど、BLM運動を例に出すまでもなく、この映画が呈示した人間社会の問題・課題は、まさに〈いま〉の問題ですね。

ことはアメリカ合衆国の黒人差別問題に限ったことじゃないよね。日本においてもいろんな差別や偏見は根強く存在していて、ある人々に理不尽な苦しみに耐え続けることを永く永く強い続けていますね。ぼく個人としては、昨今、アイヌ民族に対する差別的言動がまたじわじわと目立ってきているように感じられて、いまとても気になっています。

この映画(と原作)は「さえずる小鳥」に象徵的な意味をもたせたけれど、インターネットコミュニケーション全盛のいまは、大変皮肉なことに、「Tweet」という名のやたらとボリュームの大きな「さえずり」が、その騒々しさや伝播力(感染力)の強さゆえに、人々の中に恣意的な「正義と不正義」の構造を固定化し、「分断」や「不信」や「得体の知れないナニかに対する漠とした恐怖心」をずんずん深めているようにぼくには見えてしまいます。

もちろん、Twitterというサービスだけが悪いってわけじゃないけど。

西村くん、どう思う?

なんか、こういう、大きな声や強い音が始終ざわざわと騒がしい時こそ、より声の小さいものたちによる、小さいなりに澄みわたった多様な音色のことばを、風の中(in the wind)に高く吹き鳴らし(whistle)たいものだなぁと思います。ぴーひょろろー、でも、すぃーすぃー、でも、ふぃよーん、でも、とにかく、か細くてもいいからちゃんと“息の通った音”、“息から生まれた声”を。

いや。むしろ、いままず為すべきは、むやみに音を出す前に、喧騒と混乱の中にじっーーーーーーーと耳をすませてみて、すでにそこに在る小さな声を丁寧に〈聴く〉ことから始めるべきなのかも。

聴く耳を持たないで、強い正義の投げつけ合い・ぶつけ合いばっかりしてたんじゃ、心も世界も壊れちゃうよなぁ。

西村くん、こんどのポッドキャストはやっぱり「聴く」をテーマになんか語り合おうか。ぼく自身の問題として、ぼくは「聴く」をしっかり学ばなきゃなんない。

(写真絵本の人・小寺卓矢)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?