大学院生なのに論文が読めない

 今回のnoteは、いつもと違って大学院生である私個人の話をしようと思う。以前、noteで自己紹介記事を書いた通り、私は、言語学を専攻とする修士の大学院2年生である。しかも、理論言語学というアームチェアな学問をやってる(ただし、データをデータたらしめなければならないので、実験や統計の知識は必要だが…)。そのため、研究の大部分を占めるのが論文を大量に読むことである。そうであるにもかかわらず、タイトルにもある通り、私は、論文が読めない。正確に言うと、論文を読みはじめるという第一歩を踏み出すのが困難なのである。しかも、その一歩を踏み出したとしても、すぐに中途半端にしてしまう。そこで、本noteは、以下について述べる。なぜ、私が大学院生であるにもかかわらず論文が読めないのか。加えて、このような研究者志望にとって致命的な性質を持っている中でも、私がどのように論文と向き合っているのかについて述べる。

他の院生・研究者はすごい

 本題に入る前に、私がいかに論文を読めていないのかについて述べておこう。SNSを見ていると、他の院生や研究者がいかに大量に論文を読んでるかがわかる。私が以前目にしたものでは以下のようなものがある。

(1)1日200〜400ページの英語論文を読む(べき)。
(2)1日2日で600〜700ページくらいの英語で書かれたHandbookを読む(べき)。
(3)修士の学生は、1年間で200〜300本の論文を読まないといけない(すなわち2年間で600本)。

などなどと。このような命法を見ると、いかに自分が研究職に向いていないのかを実感する。しかし、そんな私でも言語学は好きだし、自分が研究しているものや考えている仮説は、今後も推し進めていきたいという気持ちはある。じゃあ、お前、ちゃんと論文読めよ、なんでお前、論文読めないんだよとツッコミを入れたくなるだろう。その答えは、次のセクションで述べる。

私が論文を読む気になれない原因(言い訳)

 なぜ、論文を読めない(読み続けられないのか)。論文を読む気になれない原因は、2つある。

① 読まなくても困らない

 これを見て、お前、甘ったれたこと言うなという批判はさておき、そう、論文を読まなくても誰も何も言わないし、読まなくても日常生活に支障をきたさないのだ。すなわち、「論文を読む」という行為は、私の中での優先順位が低い。少し脇道に逸れているようで逸れてはいないのだが、私は今、教員免許を取るために教職の授業をいくつも受けている。正直、教員免許が取れなく、研究もうまくいかなければ、無職になってしまう。これはまずい。そういうわけで、論文を読むという行為より目の前にある教職の課題を優先してしまう。加えて、集団授業のアルバイトもやっているのだが、これも生活のためのお金がかかっている。こんなことをやっていると1日が過ぎ、あっという間に22時だ。ここから論文を読めば良い話なのだが、先ほどから繰り返し述べている通り、今、論文を読まなくても何も困らない、じゃあ、今日もビール飲んでおくか!と。このような1日が何回も続き、論文が読めないのだ。そう、つまり、「今日、読まなくてもなんとかなるのだ」。そういうわけで論文が読めない。

② 活字にうわっとなる

 はい、これもお前、まじで研究者志望なのかよと疑いたくなる文言だ。そう、私は、活字にうわっとなる。すなわち、本自体が読めないのだ。たしかに1冊全部読み通したことがあるものはあるが、大抵は、10数ページでやめてしまう。そんな積読本が大量にある。そうなると、論文なんかなおさら読めない。

 以上、私が論文を読めない言い訳を述べてきたのだが、そんな私でもまったく論文を読まないというわけではない。500ページほどの英語で書かれたハンドブックや本も1冊読み切ったことがあるし、40ページ弱の論文も12ページ弱の論文ももちろん読んでいる(読んでなかったら卒論なんて書けていない、研究発表もできない)。では、こんなに論文を読むのが億劫である私がどのように論文と向き合っているのか?次のセクションで述べていこう。

論文を読めるようにするための3つの戦略

 論文を読むモチベーションとなる戦略は3つある。

① 読書会をする
② 研究発表をする
③ アウトプットをする

この3つについて以下に詳しく述べていく。

① 読書会をする

 まず、「読書会をする」ということだが、私はこれによってどんなに分厚い英語で書かれた本も1冊読み通すことができた。おそらく読書会がなかったら1人では読み通すことができなかっただろう。例えば、Andrew Carnieの"Syntax”だが500ページほどある。他には、600ページほどあるAndrew Radfordの”Analyzing English Sentences”や(和書だが)戸田山和久の『論理学をつくる』、容認生判断の論文輪読会、言語哲学の本などなど。他の哲学系の文献も合わせると読書会のおかげで多くの本を通読できた。

 では、なぜ、読書会によって論文を読む気になれるのだろうか。一言で言うと、「強制力」が働くからだ。読書会は、例えば、毎週、この曜日のこの時間にzoomで集まって、この範囲を読んでいきましょうという具合に行う。言い換えると、ある範囲をこの日まで読んで、レジュメ形式にまとめるといった具合に締め切りがある。いわゆる締切効果ってやつだ。これによって目標が明確になり、その範囲をすぐに読めてしまうのだ。加えて、やってこないと他の人に迷惑がかかるし(ある範囲の報告資料を作るために担当を割り当てるため)、第一、読書会が楽しめない。このように、この日には読書会があるから、該当箇所の論文を読まなきゃ!といった強制力が働いて、論文を読めてしまう。これは、授業で読む文献はちゃんと読んでくるのと同じ原理だ。すなわち、この日は、授業でこの箇所を読むから、それまでにしっかり読んでこなきゃといった強制力が働いて、論文が読める。

 さらに、読書会や授業の利点を述べておくと、芋づる式に論文を読めていく。例えば、読書会で指定している論文や書籍において、それだけでは理解しきれない概念や事象が出てきた時に、その参考文献を辿ったり、他の論文を参考にしたりするなどのモチベーションが湧く。このように読書会をやることで、他の論文も読めてしまうのだ。これが、第一の戦略だ。

② 研究発表をする

 第二に、「研究発表をする」ということだが、いやいや待てよ、論文読まなきゃ、研究発表なんてできないじゃないかと言いたくなるかもしれない。はい、それは真っ当な意見である。ただ、まったく論文を読まないということはないと思う。なぜなら、授業があるからだ。授業でなんらかの論文を読んで、疑問を持って、それをもとに自分の主張にまで発展させる。正確に言うと、疑問に思うだけで良い。もう少しカッコつけた良い方をすると知的好奇心を持つことが重要なのである。知的好奇心を持って、疑問に思えば、そこから芋づる式に論文を読めていくからだ。すなわち、論文を読むモチベーションが生まれる。このように論文を読んで、自分の主張にまで発展させ、証拠を集め、分析を援用したり批判したりしていくためには論文をいくつも読まなければいけない。このように論文を読み、主張をサポートするために必要な部分を自分の研究発表資料に書いて、読んで、書いてと繰り返していると、結構な数の論文が読めるはずだ。そして、それをどこかで研究発表する。そうすると、コメントがもらえる。参考文献を紹介してもらえる。このことによって、さらに論文を読むモチベーションが生まれる。これが第ニの戦略である。

③ アウトプットする

 これは、②や③と被っていそうだが、そうではない。なぜなら、研究発表とも読書会とも少し性質が異なるからだ。ここで言うアウトプットとは、自分で勉強した記録を他人に見える形で残すということだ。例えば、生成文法史をまとめたり、Alternationの理論的変遷をまとめたり、Thematic Hierarchyの研究史をまとめたり、用語集を作ったりなど(これらは今後やりたいアウトプット)。このようなまとめは、他人の目に触れることが前提としてあるので、その過程で下手なことや曖昧なことは書けない。そのため、しっかり様々な論文を参考にすることになる。

 私の場合、noteや読書会用に勉強した内容をまとめる。例えば、生成文法史の読書会では、生成文法の用語を読書会用にまとめたことがあった。その時は、Chomskyの実際の論文やそれを解説した本などいろいろ参考にしてまとめることとなった。そのため、論文を読めない私でもアウトプットを目的にすることで多少なりとも論文を読む気になるのだ。

まとめ:他者をモチベーションにする

 以上、「読書会をする」、「研究発表をする」、「アウトプットをする」というのが、私の「論文を読みたい気持ちになる」戦略だが、これら3つの共通点はあるのだろうか。それは、「他者をモチベーション」にするということだ。読書会の場合は、他人と一緒に論文を読んだりHnadbookを読んだりする。研究発表も論文を読んでそれを先行研究としてまとめて、それらを批判したり、援用したりして自分の主張を他人に展開する。「アウトプット」も第三者の目に晒される形で行うため、他者が関わってくる。さらに、これらは、以下のように論文を読むための良いサイクルを作ってくれる。

(4) 論文を読む→まとめる→発表する→フィードバックを受ける→論文を読む→まとめる→発表する→フィードバックを受ける…

これらの繰り返しで、結構な数の論文が読めるのだ。

 ここまで読んでくれたみなさんは、「研究者は一人で家や研究室にこもって、論文を読んだり、書いたりしていると思っていたから(Abe Jun先生の言葉を借りると、こういうのをMonk Liguistと言う)、他者をモチベーションにするなんて意外だ」と思われたかもしれない。確かに私の知っている人には一人で大量に論文を読み、他者をモチベーションにしないという人は存在する。ただ、論文を書いているのは、自分ではない他者であり、自分が論文を書くのも、他者の先行研究を使っているという点で、論文を読む・書くという行為は、「他者がモチベーション」となっているのだ。

最後に:注意点

 ここまで、論文を読む気になれる方法として、「他者をモチベーションとする」と述べてきたが、論文を読む際は、自分一人と向き合う必要がある。すなわち、論文を読むのは、一人でだし、アウトプット資料を作るのも1人でだ(輪読という読書会を除けば)。そのため、同じ分野の他者との一定の交流は必要だが、自分一人で論文を読んだり、アウトプットする集中的な没入状態が必要なのである。これについては、またいつになるかはわからないが、noteの記事にしようと思う。





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