レベッカ・ソルニット『災害ユートピア なぜそのときに特別な共同体が立ち上がるのか』4
「9.11後に実現しえた状況を想像してみよう。まず真っ先に認められたのが、市民社会の不屈のバイタリティーであり、暴力に負けない愛の絆の強さであり、攻撃の狡猾さと大胆さに対抗する開放的な社会生活であった。そこで、犠牲になることを渇望する国民は、新しい社会に向けての大々的な変化を受け入れられるかどうかを問われる。それは、中東オイルとそれに伴う不快で危険な政治に依存しない社会であり、世界でのアメリカの役割を見直し、社会への所属、目的、尊厳、そして兵器ではなく世界や国内でのそれまでとは違った役割がもたらす、より深い意味での安全性に対する国民の願いに目覚めた社会である。すなわち、事件直後の機知に富んだ即時対応的な行動は、永遠に拡張することも可能だった。私たちの社会は、良い意味での災害社会になれたのだ。
だが、この勇敢な決意と深い思いやりの精神、この目覚めた社会は、ブッシュ政権を不安にさせたようで、彼らは即座にそれを押さえつける方策をとった。ブッシュの事件勃発直後の動転ぶり、遅い対応、国中への戦闘機の緊急発進は、エリートパニックの1つの形態だと言える。ブッシュ政府が市民の台頭を抑えようと必死になったのもまた、その1つに相当する。そこで、国民は家にじっとして、国の経済活性化のために買い物をし、大きな車を買い、最初はアフガニスタンの、次にはイラクでの戦争を支持するよううながされた。「アメリカ、営業中」のキャンペーンは大量消費文化と愛国主義を結びつけたものだった。そして星条旗の赤白青の製品が激流のように溢れ出した。さらに、翌年の夏までに、国民に災害に備える実質的な訓練は何もしないまま、政府は近所の人々をこっそり監視するよう呼びかけ、市民の間に疑惑と不安の種をまいたのだった。彼らは、テロはまたあるだの、アメリカは攻撃されやすい国だの、恐ろしいことが起きるのだのと、絶え間なく言い続けた。確信を持ってそういうことで、恐怖とそれに付随する服従を吹き込んだ。」
「あの運命の日に、唯一、テロに対応できたのはユナイテッド航空93便の武装していない市民だったにもかかわらず、政府は武装した人間とプロフェッショナルだけが対応できると強調する。彼らは市民を消費と生産のみの完全に私的な生活に押し戻そうと、汲々としているようだった。かくして、最初の数週間には驚異的な雰囲気が生まれていたにもかかわらず、彼らは勇気と即時対応的行動、柔軟性、人々のつながりを特徴とする災害後の空気を壊すことに概ね成功したのだった。」
「まもなくサンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジからニューヨーク市のペンシルベニア駅に至るまで、あらゆる場所で自動銃を構えた迷彩服の男たちがパトロールを開始した。」
僕たちの日常、消費者としての日常、人と人との関係よりも人とお金との関係が優先される日常、その日常というルーティンに抑え込まれた僕たちの人間的な「過剰」な想い。そんな「過剰」な想いも、エンターテイメントという消費活動の中に吸収されてしまう僕たちの日常。その日常を守っている「秩序」と「法」。しかしその「法」は「法の執行者」や「法の番人」たちによって、法の精神である公平性と正義が裏切られている。そんな日常を目撃しながら、僕たちは「正気」であろうとしているが、本当に「正気」でいられるだろうか。
正気とは、単純で、自然で、喜ばしく、穏やかで、優しく、ごまかしがない。時には軽く、時には深く、重く。憂い、愛し、祈り、憤り、涙し、笑う。そして、待つ。
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