ケネス・ワプニック『奇跡講座入門』
「自我の起源は、私たちが神から分離したという信念です。それが罪というものです」
「私たちは個人としての自己を作り上げたと信じ、それが自分の真のアイデンティティだと思っています」
「「私たちは神から分離した個人である」という信念が、この世界のあらゆるトラブルの起源です」
「罪悪感とは、実際、私たちが自分自身について抱いたことのある全ての否定的な感情と信念と経験の総和です」
「そして、このすべての罪悪感の究極の根源は、「私たちは神から自分を切り離すことによって、神に対して罪を犯した」という信念です。その結果として、私たちは自分のことを、他のすべての人々からも自分の真の自己からも分離した者として見ているのです」
「いったん罪悪感を感じたなら、私たちは自分には罪があるのだから自分は罰せられて当然だと信じることになります。心理学的に言って、このステップを回避する道は全くありません。そうなると、私たちは怖がるようになります」
「自我の思考体系では、私たちはすでに神を敵に回しているわけですから、神に助けを求めることはできません。だから、私たちに残された唯一の相手は自我そのものになります」
「怒りの表現というのは、常に、自分の罪悪感の投影を正当化しようとする試みです。私たちの中の罪悪感を外へ投影せずにはいられないというこの必要性こそが、すべての怒りの根本原因です」
「これは、他の人々の発言や行動にあなたが常に賛同しなければいけないということではありませんが、あなたがそれらに対し怒りや裁きや批判などといった個人的な反応をするとしたら、その理由は、その瞬間にあなたはその相手の中に、あなた自身が自分の中で否認した何かを見たからにほかなりません。言い換えると、あなたは自分の罪と罪悪感を相手に投影して、その人の中で自分の罪を攻撃するのです」
「自我は答えます。「あなたの罪悪感を取り除く方法は、まず最初にそれを抑圧することです。その後、それを他の誰かに投影することです。そうすれば、あなたは自分の罪悪感を取り除けますよ」と。しかし、ここで自我が私たちに秘密にしているのは、投影された罪悪感というのは攻撃であって、攻撃とは罪悪感を手放さずにおくための最も効果的な方法だということです。自我は抜け目ありません。私たちを有罪のままにしておきたいのです」
「自我は罪悪感を感じることに、強く惹かれています。
自我とは一つの信念以上のものではなく、私たちが神から分離したときに生じたかに見えた偽りの自己です。ですから、私たちが分離は本当に起こったと信じている限りは、自我は安泰です。けれども、ひとたび私たちが分離は存在していないと信じるなら、自我はひとたまりもありません。『講座』が言っている通り、自我はそれが作り出した世界と一緒に、それがうまれたところである無の中に、消滅していきます。自我は、本当に無なのです」
「私が罪悪感を自分の中にみようと他人の中に見ようと、私は「罪は実在するし、自我も実在する」と言っていることになります。だから、自我は、私たちを有罪のままにしておくことが死活問題だと思っているのです」
「自我は、罪悪感のない状態に直面したときにはいつでも、それを攻撃します。なぜなら、自我の思考体系に対する最大の罪は、罪悪感を持たないことだからです」
「自我が私たちに教えてくれないことは、攻撃とは有罪であり続けるために最も効果的な方法である、ということです。
自分の心の中であろうと、実生活の中であろうと、あなたが誰かを攻撃するときはいつでも、あなたは必ず罪悪感を抱くことになるからです」
「この世界を動かしているのは、この罪悪感と攻撃のサイクルであって、愛ではありません」
「私が罪があると信じて、自分の罪悪感をあなたに投影して、あなたを攻撃したなら、私は自分の有罪性は罰せられて当然と信じることになります。私はあなたを攻撃したのだから、反撃されるに値すると信じるようになります」
「私があなたを攻撃するなら、その瞬間に私が無意識に抱く恐れは、「あなたは私に反撃してくるだろう、だから、私はそれに備えておかなければならない」というものです」
「すべての防衛の目的は、自分自身の恐れから自分を守ることです。もし私が恐れていなかったなら、防衛など必要ありません。けれども自分が防衛を必要としているという事実そのものが、自分は怖がらなければならないと告げています」
「自分自身を防衛しようとすればするほど、私は自我であるということ、つまり、罪深く、罪悪感と恐れを抱いている存在であるということを、自分に教えていることになります」
「もし私が、自分は真に安全であり、自分を真に保護するのは神であると本当に知りたいのなら、そのための最良の方法は、自分自身を防衛しないようにすることです」
「真理に防衛は必要ないからです。けれども、自我の思考体系の中では、私たちは保護されることが必要だと感じ、従って、常に自分を防衛することになります」
「この世界に生きる人で、何らかのレベルで、善悪という性質を世界に付与していない人はいません。そして私たちは世界を分割して、ある人々は「善」の範疇の中に入れ、別の人々を「悪」の範疇に分類します。その目的は、私たちが自分の罪を投影できる相手をもたなければならないという途方もなく大きな必要性を満たすことです」
「もし私たちが<特別な関係>に関わっているならば、その関係は排他的なものです」
「<神聖な関係>というのは、一人の人を愛するにあたって、あなたは他の誰をもそこから除外していないという意味です。愛することが、誰かを犠牲にして為されるのではない、ということです」
「自我が用いる「自分の罪悪感を自分の外に置く」というメカニズムそのものが、罪悪感を手放す機会となるのです。つまり、私が自分自身の中では直視することができない罪悪感を、あなたの中に見ることが、私の罪悪感を手放す機会となる、ということです」
「これがとりもなおさず、赦しというものの簡単な定義です。赦しとは、罪悪感の投影を取り消すことです」
「私があなたの中で看過して赦す罪や罪悪感は、実際には、私が自分自身の罪や罪悪感と見なしているものと同じです。それをあなたの中で赦すことによって、私は、事実上、それを自分自身の中で赦していることになります」
「私が自分の闇をあなたの上に投影したからこそ、あなたの中のキリストの光が隠されているわけです。だから私が、「あなたは闇の中にいるのではない」と明言することを決めるなら、私は事実上、自分自身についてもまったく同じことを表明していることになります」
「私たちは自分の人生で出会うすべての人に感謝すべきだということになります。特に、私たちにとって最もやっかいな相手となる人々については、それが言えます。彼らこそ、私たちが最初は自分の罪悪感を投影してしまったけれども、別の選択ができるということを教えるために、聖霊が使うことができる人々です」
「問題は外にあるのではなく、自分の中にあると認めます。このステップがなぜそんなに重要かと言えば、神は、分離という問題に対する答えを私たちの中に置いたからです。聖霊は私たちの外にいるのではありません。私たちの心の中にいるのです。投影している時は、問題は自分の外にあると主張しているわけですが、私たちそれによって問題を答えから離したままにしているのです。これはまさしく自我が望んでいることです。なぜなら、自我の問題が聖霊によって答えられてしまったら、もはや自我は存在できないからです」
「問題は一つしかありません。それは、分離を信じる信念そのもの、つまり罪悪感という問題であり、それは常に私たちの外ではなく中にあります」
「赦しのための最初のステップは、問題はあなたにあるのではなく私の中にある、と認めることです。罪悪感はあなたの中にではなく、私の中にあります」
「第二ステップは、自分の罪悪感を正視して、それは自分がでっち上げた作り事であると自ら進んで認めようとする意欲を持つことです」
「『講座』が実にはっきりと強調していることは、罪悪感をつくり出したのは私たちなのだから、それを取り消すことができるのは私たち自身ではない、という点です。罪悪感を取り消すには、自我の外側からくる助けが必要です。この助けが聖霊です」
「第二ステップは、事実上、聖霊に向かって、「私は、もはや、自分自身を罪悪感にさいなまれた者として見ることを望みません。どうかこれを私から取り去ってください」と求めることです」
「第三ステップは聖霊の役割であり、聖霊はただ罪悪感を取り去るだけです。というのも、実際には、聖霊はすでにそれを取り去っているからです。私たちがそのことを受け入れるかどうかという点だけが問題なのです」
「聖霊の目には、すべての攻撃が助けか愛を求める呼びかけなのです。なぜなら、もし人が愛を感じていたなら、攻撃することは決してできないからです。攻撃は、その人が自分が愛されていると感じていないという事実の表現です。ですから、それは愛を求める呼びかけなのです。それが語っていることは、「私が間違っていると教えてほしい。私を愛している神が本当に存在していること、私が神の子であり、自我の子でないことをはっきり示してほしい」ということなのです」
「私がその攻撃に対し具体的にどのような形で反応するかは、聖霊の導き次第です。私が<正しい心の状態>にいるなら、私は聖霊に尋ねるでしょうし、聖霊は私がどう反応すべきかを私に示してくれるでしょう。私の行動の形態は重要ではありません。これは行動や行為についてのコースではなく、私たちの考え方を変えることを教えるコースなのです。『講座』の中の言葉、「世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい」の通りです」
「もし愛が私たちの胸の中にあるなら、私たちが行うすべてのことが正しくなります。愛が私たちの胸の中にないなら、何を行なっても、それはすべて間違ったものとなります」
「聖霊によれば、世界中のあらゆる人やものについて下せる判断は二つしかありません。それは愛の表現か、愛を求める呼びかけか、の二つに一つです。この他に可能な選択肢はありません」
「ということは、私たちが何をしようと、世界が私たちに何をしているように見えようとも、私たちの応答は常に、愛による応答となる、ということで、すべてが、全くシンプルになります」
「赦しというのは、私があなたの攻撃という闇を超えたところを見て、それを、愛を求める呼びかけとして捉えるということです。それがキリストの心眼(ヴィジョン)です」
「キリストの顔とは、私たちが世界中のすべての人々の中に見る無罪潔白の顔であり、その時点で、私たちはキリストの心眼を達成したことになり、それが『講座』が実相世界と呼んでいるものです。実相世界は、天国に着く前の最終到達地点です」
「『講座』ははっきり断言していますが、赦しは私たち自身で実行することはできないものであり、聖霊によって私たちを通して為されるものです」
「私たちは自分自身では、何をすべきかを知らないからです。絶対に確信があると思っているときもそうです。けれども、私たちの中にそれを知っている誰かがいます。だから、私たちが向かうべき相手は内なる聖霊です。それこそが、本当に、私たちの問題の答えなのです。そして、私たちのすべての問題の答えでもあります」
「人間の基本的感情は、怒りではありません。罪悪感です。それが怒りであると思われていることこそが、怒りを検討するにあたって、世界が採用しているアプローチ全体の根底にある誤謬です」
「私たちに授けられているのは愛です。これは神から授かりました。そして私たちが愛の代替として作り出した感情は、恐れです。恐れは罪悪感と言い換えても差し支えありません」
「人間の基本的感情、すなわち自我の基本的感情ですが、それは恐れ、または罪悪感です。怒りではありません。怒りは罪悪感が投影されたものであり、それ自体は決して問題ではありません。真の問題は常に、その根底にある罪悪感です」
「心理学では決して「真の問題は罪悪感であり、罪悪感は神に対する防衛である」といったことを、私たちに教えてくれません」
「誰かに対する憎しみという知覚から、その人を愛をもって見る見方へと突然、移行すること、これが奇跡です。それは知覚の転換であり、自我による見方を聖霊の見方へと訂正することです」
「その(コースの)宗教的側面は、二つの見解を主軸としています。
第一は、神なくしては、私たちには自我以外の何も残っていない、という見解です。私たちが、自分を創造してくれた神が存在し、自分は神の子であるということを知らない限り、私たちの自己像はいつまでたっても、自分が自分自身について抱くイメージや知覚以外のものにはなり得ず、それは、自我から派生してくるものばかりです。真の赦しが可能となるためには、まず最初に、私たちが「自分は決して傷つくことのない存在だ」という信念を持ったうえで、その中で赦しが培われていかなければなりません。つまり、それは、私たちはこの世界の中の誰によっても、何によっても危害を加えられることはあり得ないという信念ですが、そのような信念を持つことは、少なくとも、自分を創造してくれて、自分を愛してくれている神が存在しているということを私たちが知っていない限り、不可能です」
「第二の見解は、真の赦しは聖霊がいなければ不可能だという見解です」
「私たちは自分自身だけでは、絶対に赦すことはできません。なぜなら、少なくともこの世界においては、私たちだけで存在するなら、私たちは自我に他ならないからです。一つの思考体系をその内側から変えることはできません。その思考体系の外側から助けが必要です。そうした助けが聖霊です」
「真に赦すとき、私たちは本当に自分自身の罪悪感を手放すことになるからです。そして自我と一体感をもっている者は、誰もそんなことをしたいと思いません。神の助けがなければ、私たちの前に立ち現れる罪悪感にまつわる根深い問題を通り抜けていくことなどとてもできません」
「ただ忍耐強く待っていれば、そのうち聖霊の方から現れてくれます。あなたの方では、あなたを助けてくれる誰かがいると知ることだけで十分です」
「重要なのは、あなた自身からのものではない誰かがあなたと共にいるという自覚です。その存在はあなたの中にいますが、あなたからのものではありません。彼は、あなたの自我としての自己以外のあなたの一部からくるものです」
「もし私たちがこの世界と自我を笑い飛ばすことができたなら、問題としての自我は消え去ります。私たちがしてしまう最悪のことは、問題と格闘することです。というのも、格闘することで、その問題は実在するように思えてくるからです。けれども、この笑い声はもちろん嘲笑的な笑い声ではありません。また、分離という根本的な問題が人々の具体的な問題として現れている状況において、それらに対して無関心になることを奨励していると考えるべきではありません」
「この世界の中で私たちが経験していることのすべては、罪を信じる私たちの信念が生み出した結果です。ですから、罪が原因で、苦痛や苦難、死がその結果です。分離した世界の実在性を証言するものとして、死より強力なものは他にありません」
「この世界における罪の最大の結果が死であるというのなら、「死は幻想である」と実証することが、同時に、「罪は存在しない」ということも実証することになります。これはまた、分離は一度も起こらなかったと宣言することにもなります。ですから、私たちには、死は存在しないことを私たちに示してくれる誰かが必要だということになります。その人が死を取り消すことによって、罪も取り消すことになり、同時に、分離は存在しない、分離は一度も起こらなかった、そして唯一の実相、すなわち唯一の真の原因は神であると、私たちに示してくれることになります。その人がイエスだったのです。彼の使命は、「死は存在しない」ということを実証することでした」
「『奇跡講座』の基本原理のすべてが、イエスの復活が実際に起こったという理解に立脚しています。厳密に言えば、復活というのは、死という夢から覚めることにすぎません。ですから、復活は、心だけに関わるものであり、肉体とは関係ありません」
「私が無駄に死んだと教えてはならない。そうではなく、私があなたの中に生きていることをあなたが示すことによって、私は死んでいないと教えなさい」(T11Ⅵ3−4)
「理解することが決定的に重要なのは、「死は存在しない」ということなのです。というのも、死が実在するなら、その他のあらゆる形の苦しみも実在することになってしまい、神は死んだことになるからです」
「イエスは、この世界の実在性を最も雄弁に語る証人である「死」というものを相手にして、それが自分に対して何の支配力もないことを示したのです。それが、彼の人生と使命と役割がもっていた意味の全てでした。死を克服するということは、死は実在せず、その原因のように見えるものも実在せず、しがたって、私たちは実際には自らを父なる神から分離させたことはなかった、と実証することです。これが分離の取り消しです」
「究極には、死は幻想であるという事実を受け入れることをしなければ、『講座』を受け入れることはできません。私たちはこれを直ちに行う必要はありません。また、これを私たちの人生の中に完全に統合する必要もありません。なぜなら、完全に統合したなら、その瞬間に、私たちはもはやここにはいなくなるからです。ただ、それがゴールである、ということです。しかし、知的レベルの概念としては、それがこのコースの全思考体系に欠くことのできない部分であると認識しなければなりません」
「結果を無効にすることによって、私は原因も無効にします。それが真の赦しです」
「彼の復活は、世界が彼を殺害したことの罪は結果をもたらさなかったということをはっきりと宣言しました。彼は今も、私たちと共にいます。ですから、彼らが彼を殺すことなどできたがはずがありません。ということは、彼らは罪を犯さなかったということになります」
「何の結果も生じなかったことを示すことによって、原因を取り消すのです」
「自分の中に、自分を保護し、愛し、慰めてくれる誰かがいて、攻撃する人にその愛を分け与えてほしいと自分に求めているということを知らなければ、この世界の攻撃に立ち向かうことができる人は一人もいません。だからこそ、イエスは『講座』の中で、何度も繰り返して私たちに懇願しているのです。あなたが赦すことができるように、彼の助けを受け入れてほしい、と」
「聖霊は神を代弁する声と描写されています。神には二つの声はありません。イエスにはもはや自我がありませんから、彼が使える唯一の声は聖霊の声のみであり、彼はその声が顕現されたものです。私たちが彼との一体感を持てる度合いに応じて、また、私たちがこの世界についての彼の知覚(キリストの心眼)を共有し、彼とつながることができる度合いに応じて、私たちもまた聖霊を顕現するものとなり、私たちの声が聖霊の声となります」
「一つは、私たちは、自分で自分が被害者だと考えることによってしか、被害者になることはない、ということ。二つめは、私たちの平安と、私たちの真のアイデンティティである神の愛は、他の人々の言動によっても、また直接自分に向けられたかに見える言動によってさえも、決して影響されることはない、ということです」