氷川きよしとbe natural
73日目(6月15日)
ちょっと気になっていた"氷川きよし"。
突然、「限界突破Xサバイバー」妖艶な姿になって現れて、そりゃ気になるわ。
あのぼっちゃんのような"きよしくん"、王子さまの"きよしさま”はどこにいったの?
そして、何気なく見た、NHKの「SONGS」に出演していた”氷川きよし”から目が離せなかった。これはすごい。。
二つの意味でこれは、、、と思うところがあった。
一つは、とんでもない表現力。
SONGSの中では自曲を含む3曲を披露していたが、特に驚いたのが、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」の日本語カバー。
何気なくみた映画で、この曲の「歌詞の一行一行が染みて」「涙が出た」のだそうだ。今回のために書き下ろした日本語歌詞で歌い上げた。
テレビに吸いつけられるようで離れられなかった。
演歌というフォーマットから飛び出したその表現はとてつもなく、こんな器の大きな人だったのだと驚くばかりだった。
演歌を抜け出してくれてありがとう。これは宝だわ。
もう一つは、彼の行き着いたところ。
子供の頃は、ロックやポップスが好きだったけれど、
演歌を歌ってくれと頼まれると断れなくて、演歌をはじめたのだそうだ。
半次郎の歌を唄って、実生活でも半次郎のようにいなければならないのか、と
葛藤した時期もあったという。
ボヘミアンラプソディの歌詞に共感し、いい時もあれば悪い時もある。
常にナチュラルに生きたい、そう感じて、
自分らしさの表現、美の表現をし始めた。
子供の頃の思い出から、今の思いを語る。
お母さんのマニュキュアを隠れて塗って、そっと隠した。
「それがダメっておかしくないですか?
やりたかったらやればいい
それに対しておかしいって言われる筋合いがない」
「一人一人が違うから、これが美しいからこれをやりたいでいいと思う。
ネイルしてアイシャドウしている自分が好きな自分らしいと思える。」
「自分の歌いたい歌を歌いたいように歌う」
そう語る"氷川きよし"は私がかつて見ていた、ちょっと自信なさげなぼっちゃん、でもなく、きれいに整えられた王子様は居なく、巨大なオーラを放つ存在があった。
誰に何を言われてもこの道を行く。
自分らしく生きることの覚悟がそこにはあった。
なんともすがすがしい。
ここ数年、男性からこういう発言が出てくることが目立ってきたように思う。
東大教授で衆議院に立候補した安冨歩教授も、女装をしてみたら、男性はこうあるべき、男性の立場から自分を解放でき、息苦しさがなくなった。「本来の自分で生きる」ことの尊さを感じているという。
りゅうちぇるも一貫したメッセージを出し続けている。
<性別にとらわれない自分の”色”を表現し続ける信念>
そうですね、普段から僕がCANDYとBOYを組み合わせて「自分は男の子でもなく女の子でもなくCANDY BOYなの」と言っているように、みなさんも性別や年齢にとらわれず、“自分で自分のジャンルを作っていいんだよ”というメッセージを伝えたくて。例えば“桃太郎”も、桃という可愛らしいイメージと、男の子を組み合わせたものですよね。今では当たり前に昔話としてあるけれど、その物語が無かったら、キラキラネームと言われてしまうと思うんですよ。ずっと昔から存在しているから、それが普通になる。「こういう人もいていいんだ」という考え方をずっと続けていけば、風変わりなものも文化になっていくんです。今認めてもらえなくても、将来当たり前になることが必ずあると思うんですよね。
これまで男性が中心に作り上げてきた社会システムに対して、女性ばかりが声を上げてきた印象があるが、彼ら存在やメッセージがじわじわと境界線を薄くしていくような感覚がある。
今の社会システムの中で違和感や生きづらさを感じずに、会社に入り、社会システムを回し続けるために、働き続ける。安定した人生なのだろうと思う。
その色合いはどちらかというとグレーなモノトーンな世界だ。
安定的に稼働している工場のよう。
システムを守るためにつかうエネルギーは膨大で疲弊するし、一つの歪みで崩壊してしまう危うさを持っている。
もう少しナチュラルで自然で有機的な世界の方が、楽で楽しくしなやかに、全ての生命が生きながらえていくのではないか。
be natural
そういえば、氷川きよしが、これからの自分の人生のことを、
キー ナチュラル って言ってた。
私たち一人一人が自然に還る。