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「赤報隊=野村秋介黒幕説に違和感あり」元朝日新聞キャップの異論

戦後の未解決事件の一つ、警察庁広域重要指定116号事件(赤報隊事件)をめぐる報道に新たな動きがあった。
文藝春秋2023年6月号の〈朝日襲撃「赤報隊」の正体〉と題した特集記事に対し、元朝日新聞116号事件取材班キャップでノンフィクション作家の樋田毅が違和感を表明。同誌が展開した野村秋介黒幕説は本当に事件の真相を指し示しているのか、と疑問を投げかける長文記事を会員制月刊誌「FACTA」に寄稿したのである。(オンライン版はこちら
文藝春秋の特集記事については、この僕も大いに興味をそそられ、前回の投稿で詳しく紹介した経緯がある。なので、今回は樋田の異論をじっくり読み解いてみることにしよう。
(※この記事では登場人物各位の敬称を省略させていただいています。)

文藝春秋6月号の野村秋介黒幕説

まずは文藝春秋6月号の内容をおさらいしておきたい。
その核心部分は、かつて赤報隊との関わりがささやかれたカリスマ的な大物右翼活動家・野村秋介(故人)の盟友であり、金銭面で彼を長年支えてきたとされる実業家・盛田正敏(79)の証言である。

文藝春秋6月号の特集記事

盛田によると、朝日新聞の若手記者が何者かに射殺された1987年5月3日の阪神支局襲撃事件の発生直後、東京・浜松町に事務所を構えていた野村から盛田のもとに「 急いで3000万ほど現金で持ってきてくれないか。えらいことになった。もう後には引けない」という電話が入った。
当時、六本木で「サム・エンタープライズ」という不動産会社を経営していた盛田が、現金を用意して野村事務所に駆けつけると、野村のほかに30~40歳くらいの短髪で丸顔の男がいた。野村は現金入りの紙袋を受け取ると、それを無造作にその男に渡した。盛田はそれだけ見届けて帰った。
後日、盛田がその男の素性を尋ねると、野村は「北陸に住む自衛隊出身の銃マニアだ。俺の影響を受けてやってしまったようだ。逃走資金を出してやらないといかん」と話したという。
以上が盛田の証言内容なのだが、文藝春秋取材班が当時野村の周囲にいた人々に当たったところ、この元自衛官を見たことがあるという者は他にいなかった。男の身元やその後の消息はわかっていない。

36年前、赤報隊に襲撃された朝日新聞阪神支局
朝日新聞阪神支局襲撃事件を報じた新聞各紙

一方、文藝春秋の記事ではもう一つ、野村秋介にまつわる重要な事実が暴露されていた。それが赤報隊の標的となったリクルート社との因縁だ。
記事によると、赤報隊による江副浩正・ 元リクルート 会長宅 銃撃事件が起きた 1988年当時、 リクルートは野村の知人が率いる右翼団体とのトラブルを抱え、何者かによって様々な嫌がらせを受けていたという。そして、リクルートがその後、野村からの要請に応じる形で、イベント協賛金名目で野村側へ1億円を支払っていたというのである。
この1億円授受の話は、支払った側のリクルート元幹部と、野村側の受け取り窓口となった上記サム・エンタープライズの盛田元社長の双方から取材班が証言を得ているので、かなり確度の高い情報だと考えてよさそうだ。
しかも、盛田の証言によると、リクルートと野村との交渉の席で「また事件が起これば、右翼対策費として出せるかもしれない」というリクルートの社内事情が話題にのぼり、野村が「わかった」とうなずいたことがあったという。その後、赤報隊による愛知韓国人会館放火事件(1990年5月)が発生したことを考えれば、この証言は非常に意味深だ。
文藝春秋の特集記事はこうした取材結果を積み重ねることで、赤報隊の背後に野村が黒幕として存在していたのではないか、という事件の構図をあぶり出そうとしていた。

元朝日116号事件取材班・樋田毅の見解

では、朝日新聞116号取材班キャップとして、またフリージャーナリストとして、事件の真相を30年以上追い続けてきた樋田毅は、この文藝春秋記事をどう読んだのか。
一言でいえば、一定の評価をしつつも、野村黒幕説には違和感がある、とかなり批判的な見方をしている。

まず、野村秋介に実行犯らしき元自衛官の逃走資金を渡したという盛田の証言についてはこう論評している。

私も過去の取材で、「私は犯人に出会った」「私は犯人を知っている」といった類の情報には何度も接した。(略)盛田氏の話に、文藝春秋の取材班が飛びつき、裏取り取材に動いたことは十分に納得できる。

樋田毅のFACTA寄稿記事

しかし、その後、文藝春秋取材班が元自衛官の消息を追い、怪しいグループの存在をつかんだとしながら、結局、そのグループの中に実行犯がいたのかいなかったのかよくわからないまま終わってしまう記事展開に樋田は失望。読んでいて徒労感を感じてしまった、と記している。
確かに、この点は僕も同意せざるを得ない。
「事件当時は東海、関西、北陸を拠点に活動していた自衛隊出身者を含む、あるグループ」という表現はあまりに漠然としすぎていて、まったくイメージがわいてこない。
(※余談だが、僕はこの表現を見たとき、覆面作家の一橋文哉が多用する「闇の紳士たち」という言葉を思い出してしまった。)
前回の投稿でも書いたが、そもそも元自衛官に関する盛田の証言には裏付けが存在しない。たとえ身元や消息が分からなくても、「そんな男を俺も見た」という証言が他にもあれば、真相解明につながる新事実として重みを持つのだが、現状では「盛田証言がウソではない」と証明する材料が皆無なのだ。証言内容が非常に興味深いだけに、そこが惜しまれる。

野村秋介が赤報隊事件に便乗した!?

次に、リクルートから野村側に渡った1億円について。
さきほど書いたように、この1億円授受については、送った側と受け取った側の双方の証言によって事実であることがほぼ明らかになっている。ただ、その事実の解釈において、樋田は文藝春秋とは異なる見方をしている。

これらの事実から浮かび上がったのは、野村氏が、いわば赤報隊による江副宅銃撃事件に乗じる形で、リクルート社に資金提供を求め、同社が応じたという事ではないのか。
野村氏がリクルート社に資金提供を求めたのが、江副宅銃撃事件の前であれば、野村氏が赤報隊の動きを事前に知っていたことになり、事件の黒幕だった可能性が出てくる。だが、リクルート社が野村氏からの資金提供の求めに応じたということだけでは、野村氏が赤報隊の黒幕的存在であることの根拠にはならない。

樋田毅のFACTA寄稿記事

う~ん、言われてみれば確かにそういう見方も成り立つかもしれない。
僕は文藝春秋でこの1億円授受の話を読んだとき、これは野村と赤報隊の関係をうかがわせる状況証拠になりうると感じた。正直言って「野村が赤報隊事件に便乗したのではないか」という発想を持っていなかった。そういう意味では目からウロコの指摘である。
さらに樋田は、野村が1993年、朝日新聞東京本社で拳銃自殺を遂げた際、その場の発言や遺書の中で赤報隊に全く言及していなかった点を重視。
「もし、野村氏が本当に事件の黒幕であれば、あれほど自己演出に長けていた野村氏が自分の人生の最後の場面で、赤報隊事件について触れるのが、ごく自然ではないのか。言及がなかったのは、やはり無関係だったためではないのか」と述べている。
なるほど、カリスマ右翼活動家として自己演出に余念のなかった野村の生前の言動を考えると、この指摘には一定の説得力があるようにも思える。

野村秋介の著書「さらば群青」の表紙に登場する本人の姿

だが、今回の樋田の寄稿記事の中で僕が最も驚かされたのは次のくだりだ。

私は、実は今回の記事とほぼ同じ骨格の原稿を、朝日新聞社に在社していた08年に読んでいる。

樋田毅のFACTA寄稿記事

なんと、彼にとってこの1億円授受話は初耳ではないというのである。

朝日内部で葬られていた1億円ネタ

樋田はここから、朝日グループ内の2つのメディア————朝日新聞と週刊朝日の間で展開された赤報隊報道をめぐる裏話を披露している。僕にとっては、ある意味、今回の寄稿記事の中で最も興味深い話だった。
その内容を時系列で要約すると、おおむね以下のようになる。

  1.  2007年(平成19年)11月、当時朝日新聞社に在籍していた樋田は大阪本社編集局長の指示を受け、週刊朝日のデスク・記者と面談した。そこで彼らから「赤報隊によるリクルート元会長宅銃撃事件に野村秋介が関わっていた」というネタを取材していることを聞かされた。ただ、樋田は彼らの説明を聞いて、根拠に乏しく納得できる内容ではないと感じた。
    ちなみに、この記者はかつて週刊文春に在籍し、2003年(平成15年)に〈朝日襲撃「赤報隊事件」絞り込まれた九人の「容疑者」〉のスクープを手掛けた人物だった。(※以下「A記者」と表記する)

  2.  2008年(平成20年)8月、樋田は朝日新聞東京本社で週刊朝日のA記者らと再び面談。116号事件取材班の中枢メンバーだった別の朝日新聞幹部も同席した。A記者はこのネタを文章にした原稿と、取材の経緯を説明したメモを提示したが、樋田たちは納得できる内容ではないと感じ、厳しく注文をつけた。

  3.  その半年後(2009年2月ごろ?)、樋田たちは朝日新聞大阪本社でA記者らと3度目の面談をした。ここでA記者は「完成原稿」を提示したが、樋田たちはやはり「掲載困難」だと判断した。ボツになったA記者の原稿の骨格は、今回の文藝春秋の特集記事とほぼ同じだった。

  4.  樋田はその後、赤報隊事件に野村が関与していたとする根拠は乏しいものの、リクルートから野村へ1億円が渡っていたという話だけは記事にする意味があると考え、A記者の了解を得たうえで原稿を書き直し、116号事件取材班の面々と掲載を議論した。だが、野村秋介の動機が十分解明できていないことがネックとなって掲載は実現しなかった。

  5.  2018年(平成30年)2月、朝日新聞社を退社していた樋田は、長年の赤報隊事件取材の蓄積をまとめた著書「記者襲撃」を出版するにあたって1億円授受の話を盛り込みたいと考え、東京で週刊朝日のデスクとA記者に面談。「10年前からの懸案をこの形で世に出したい」と打診したところ、A記者から「検討したいのでコピーを」と求められ、コピーを手渡した。

  6.  しかしその後、A記者から「掲載は断る」と連絡が入り、樋田は1億円授受話の収録をあきらめた。さらに、朝日新聞社の知的財産管理センターと広報部が、樋田の著書の出版準備を進めていた岩波書店に対し「樋田氏が在社中に知ったことを書くのは職務著作にあたり、著作権は朝日新聞社にある」と原稿チェックを執拗に求めてきた。樋田と岩波書店はこの要求を突っぱねて「記者襲撃」を出版した。

以上が裏話の大筋なのだが、この時系列の最後に、僕の判断でもう一つ出来事を付け加えておこう。

7.2023年5月、週刊朝日は休刊となり、101年に及ぶその歴史に幕を下ろした。それとほぼ時を同じくして、文藝春秋6月号に、リクルートから野村秋介への1億円授受話を盛り込んだ特集記事〈朝日襲撃「赤報隊」の正体〉が「本誌取材班」の署名で掲載された。

いかがだろう。
こうしてみると、この1億円授受の話がいかに紆余曲折を経て日の目を見たネタであるかがよくわかる。実に15年間にわたって、朝日グループ内で掲載不掲載をめぐるせめぎ合いが続いていたのである。
樋田は文藝春秋6月号の特集記事の執筆者について「詮索するつもりはない」と書いているが、恐らく、文藝春秋取材班の中心メンバーはこのA記者だと考えて間違いないだろう。
(※文藝春秋取材班の中に、かつて週刊文春で「重要捜査対象者9人リスト」のスクープに携わった記者が含まれていることは、文藝春秋編集長の新谷学もニュースレターで明らかにしている。)

週刊文春が2003年に放った「9人リスト」のスクープ

15年前の不掲載判断は正しかったのか

問題は、この15年間にわたる裏話から何を読み取るかだ。
想像するに、樋田が読者に伝えたかったのは〈文藝春秋が今回報じた内容はかなり以前から浮上していた話であり、朝日新聞社内では根拠の乏しさを理由にずっと掲載を見送っていた〉ということなのだろう。
樋田は寄稿記事の中で、文藝春秋報道の根拠の乏しさを再三指摘し、「盛田氏の証言に寄りかかりすぎている」と苦言を呈している。それはその通りだと思う。
しかし、さらに踏み込んでこんなことも書いている。

15年前、週刊朝日の記者が持ち込んできた原稿を、朝日新聞社の赤報隊事件取材班が協議の上、「不掲載」と判断したことについて、今も間違っていたとは考えていない。当時、週刊朝日の編集部内で「大阪社会部の横暴で記事が潰された」と悪評サクサクだったことも承知している。だが、朝日新聞社は赤報隊によって記者2人を殺傷された被害者であった。私たちは事件の当事者として、記事にするのは「百パーセント裏が取れた内容に限る」と決めていた。(略)「面白さ」を追求する週刊朝日の記者の感覚でいえば、受け入れ難いものだったかもしれない。だが、私たちはこの方針を愚直に守ってきたのである。

樋田毅のFACTA寄稿記事

残念ながら、僕はこの主張にだけはどうしても賛同できない。
その理由を説明する前に、この裏話から僕が読み取ったことを書いておく。
それは朝日新聞社内(あるいは朝日グループ内)に厳然と存在するヒエラルキーの弊害と、A記者が抱えていたであろう憤りである。
彼の立場になって再度、一連の経緯を振り返ってみたい。

週刊文春時代に赤報隊事件で「9人リスト」のスクープを放ったA記者は、週刊朝日へ移籍してからもこの事件の取材を熱心に続け、リクルートから野村秋介への1億円授受を含むいくつかのネタをつかんだ。
しかし、朝日系列の紙媒体で赤報隊事件に関する新情報を報じようとする場合、朝日新聞大阪社会部を中心とした116号事件取材班の面々、いわば社内で「赤報隊事件のエキスパート」と認められたベテラン記者たちのゴーサインを得なければならないというハードルが存在した。
そこでA記者と週刊朝日デスクは、朝日新聞大阪本社の編集局長に話を通して樋田らと再三面談し、取材メモや原稿を提示したが、結局は「根拠に乏しい」と却下された。
週刊朝日編集部は泣く泣く掲載を見送り、その後もA記者は週刊朝日で記者を続けていたが、10年後、朝日新聞社を退職してフリーになった樋田から「私の著書にあの1億円授受の話を使いたい」と打診された……。

このときのA記者の胸中は察するに余りある。
樋田は打診の際、「週刊朝日の記者の取材によるものであることを実名で明記する。つまり、手柄の横取りはしない」と伝えたというが、それで素直に納得できる記者はいないだろう。
あなた方は「報じるに値しない」と結論付けたのではなかったか?
そんなネタをなぜ今ごろ、自分の著書に載せようとするのか?
A記者の頭にはそんな思いが渦巻いたに違いない。
その後、週刊朝日編集部を通じて樋田の動きを把握した朝日新聞社が岩波書店に原稿チェックを要求したのは論外としても、A記者がこのネタの掲載を断ったのはごく自然な判断だと思う。
このネタはいずれ、しかるべき場所を見つけて自分の手で書かせてもらう。
僕ならそう考えるはずだ。

社内ヒエラルキーの罪深さ

ここで強調したいのが、事態をここまでこじらせる原因となった社内ヒエラルキーの罪深さだ。
朝日新聞社内には古くから「新聞が本流、雑誌は傍流」という根深い上下意識が存在する――――。このことは、これまで複数のOBや現役社員によって繰り返し指摘されてきたところだ。恐らくこれは朝日に限らず、日本の新聞社が共通して抱えてきた悪しき文化だろうと思う。
本来、週刊朝日は朝日新聞とは別の独立したメディアのはずである。しかも、2008年4月には分社化によって発行元が株式会社朝日新聞社から株式会社朝日新聞出版に代わっているので、朝日グループ内の子会社とはいえ組織の上でも独立した存在になっている。
なのに週刊朝日編集部は、所属記者が独自につかんだネタを報じるにあたって、なぜか朝日新聞116号事件取材班のもとへ何度も足を運び、ゴーサインを得ようとした。
同じ朝日グループの一員としてアドバイスを求めるくらいならまだわかるが、116号事件取材班の面々が「不掲載」と裁定を下したら、その通りに掲載を見送っている。というか、そもそも最初から掲載不掲載の判断をゆだねてしまっている。
これはどう考えても健全な報道機関の姿ではない。
もし仮に、A記者の原稿が今回の文藝春秋記事とほぼ同じ骨格だったのだとしたら、樋田が指摘するような弱点はあるにせよ、このとき週刊朝日の誌面でそれを世に問う価値は十分にあったと僕は思う。
不掲載の裁定を下された週刊朝日の編集部内に「大阪社会部の横暴で記事が潰された」という不満が渦巻いたのも当然だろう。
要するに、ヒエラルキーの下層に位置する週刊朝日には、少なくとも赤報隊報道に関する限り「編集権の独立」が存在していなかったのだ。
ここにそもそもの問題があったと指摘したうえで、話を元に戻す。

多様な視点が事実を掘り起こす

なぜ僕は「15年前の判断は間違っていなかった」という樋田の主張に賛同できないのか。
それは「赤報隊事件で記事にするのは100%裏が取れた内容に限る」という朝日新聞116号事件取材班が自らに課したルールを、本来独立したメディアであるべき週刊朝日にまで押し付けているからだ。
より正確に言えば、取材班の面々が「これは100%裏が取れているね」と認定した話だけを記事にするというルールを、週刊朝日にまで押し付けているからだ。
確かに、かつて樋田が率いた朝日新聞116号事件取材班は、日本のメディアの中で最も赤報隊関連の情報を蓄積したエキスパート集団だったろう。記事には100%の裏付けを求めるという姿勢も立派である。その自負はわかる。
しかし、彼らの判断が常に正しく、その取材が常に最先端を走っているとは限らない。朝日新聞が発掘できなかった事実を週刊誌が掘り起こすこともありうるし、116号事件取材班が見落としていた視点を一介のジャーナリストがすくいあげることだってありうる。
だから、赤報隊事件であれ何であれ、より多くの埋もれた事実に光を当てるためには、多様なメディアが多様な視点で取材を進め、それぞれの判断と責任において報じるべきなのだ。
その中でどうしても見過ごせない誤報が飛び出せば、メディア間で厳しくチェックし合ってフェイクニュースを淘汰してゆくべきのだ。2009年の「週刊新潮ニセ実行犯実名手記騒動」の時のように。

メディア各社の指摘を受け週刊新潮は誤報を認めた

ときには100%の確証がなくても…

以上のような理由から、朝日新聞116号事件取材班の面々がA記者の原稿を「不掲載」とした15年前の判断は、明らかに間違っていたと僕は思う。その判断に唯々諾々と従った週刊朝日編集部の判断もまた然りだ。
現にこの判断によって、本来なら2008年に世に出るはずだった1億円授受という「確度の高い話」までが、その後15年間にわたって国民の目から遠ざけられてしまうという、明らかな社会的不利益が生じている。
この不利益を過小評価してはいけない。
もしもこの事実が15年前に公表されていたら、それが呼び水となって野村秋介や赤報隊に関する新たな証言、未発掘の事実がメディアにもたらされていた可能性だってゼロではないのだ。

さらに言えば、さきほど「100%の裏付けを求めるという姿勢も立派である」と書いたが、これも行き過ぎは禁物だと思う。
なぜなら、すでに時効を迎えた未解決事件のような特殊なテーマを独自に調査して報じる場合、「100%の裏付け」をハードルとして設定すると、報道できる内容は極端に少なくなってしまうからだ。
文藝春秋の特集記事には確かに裏付けの欠ける情報も含まれている。でも、だからと言って、これらの未確認情報を読者の目に一切触れさせないほうがいいだろうか?
僕はそうは思わない。
メディアからの情報が極端に少なくなれば事件は急速に風化が進み、真相解明はますます遠のいてゆく。
それよりは文藝春秋が今回やったように、それぞれの情報にどのような裏付けがあるのか、あるいはないのかを説明したうえで、取材結果や取材班の見立てを読者の前に提示する選択肢があっていい。
たとえ、その内容が真相解明に直接結びつくものでなかったとしても、そこで提示された取材結果は後に続くジャーナリストたち、ひいては社会全体の共有財産となっていくはずだからだ。

(※余談だが、僕はこれと全く同じ理由で、樋田の著書「記者襲撃」を高く評価している。この本に記された旧統一教会に関する取材データが、2022年に発生した安倍晋三暗殺事件、それに伴ってクローズアップされた教団の反社会性を考察するうえでいかに有用な資料となったかは説明するまでもない。これらの情報は、朝日新聞社という組織を離れた樋田が、116号事件への関与を裏付けることがでなかった人物や団体についても取材内容を可能な限り書き残しておくべきだと考えたからこそ、世に出たわけである。)

樋田毅の著書「記者襲撃」(2018年・岩波書店)

まとめ

というわけで、僕の主観や主張を好き勝手に交えつつ、樋田のFACTA寄稿記事を読み解いてきたが、あまりにも長くなりすぎたので、最後にもう一度、僕の考えを整理しておくことにする。

文藝春秋6月号の特集記事に対する樋田の指摘には考えさせられる点が多く、特にリクルートから野村秋介への1億円授受について「野村が赤報隊事件に便乗したのではないか」と解釈する視点は注目に値する。
前回の投稿で僕は「野村秋介黒幕説はまだ仮説の域を出ていない」と書いたが、樋田の指摘はそのことを再認識させてくれたと言っていいだろう。
ただし、樋田をはじめとする朝日新聞116号事件取材班の面々が、15年前、A記者の記事を事実上ボツにした判断については、編集権の独立という観点から見ても、多様な視点で真相解明を目指すという観点から見ても、大いに問題があった。
これが僕の感想だ。
そして、樋田の異論に目を通した現時点でもなお、文藝春秋6月号が報じた新事実・新証言の数々は、116号事件の真相を考えるうえで極めて重要な材料であり、賞賛すべきスクープであると僕は考えている。

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