【赤報隊に会った男】② 第1の接触~「今後僕らは朝日新聞をやる」
1995年(平成7年)は、阪神大震災や地下鉄サリン事件、国松孝次・警察庁長官狙撃事件といった戦後史に残る出来事が続発した激動の年だった。
私は赤報隊に会ったことがあるという鈴木邦男の「告白」は、この年の6月、扶桑社が発行する週刊誌「SPA!」の誌面で唐突に始まった。
警察庁広域重要指定116号事件の発生からすでに8年。捜査にめぼしい進展はなく、迷宮入りしたのではないかとみなされるようになっていた頃の話である。
「夕刻のコペルニクス」という連載
鈴木は当時、「SPA!」誌上で「夕刻のコペルニクス」と題したコラムを連載していた。その連載の中で彼は、自分が代表を務める新右翼団体「一水会」の十数年前の不祥事を赤裸々に回想していた。それはこういう話だ。
1982年(昭和57年)、一水会などの新右翼団体に所属する若者数人の間で「あいつは公安警察のスパイではないか」という疑惑をきっかけにした仲間同士のリンチ殺人事件(「スパイ粛清事件」「内ゲバ殺人事件」などとも呼ばれる)が発生。当事者らが警察に逮捕された。
その中に、一水会の若手メンバーで、後に獄中で小説を書き、出所後に作家デビューする見沢知廉という男(故人)がいた。
また、代表の鈴木自身も、事件後に見沢から証拠隠滅の相談を受けていたため、警察から関与を強く疑われ、一水会は存亡の危機に立たされた。
鈴木は、このような当時の苦境を連載の中で数週間にわたって回想したうえで、いきなりこう切り出した。
まさに爆弾発言である。
ちなみに、この連載第33回に付された見出しは〈逮捕から逃げ切ると、「赤報隊」が会いに来た!〉。読者の多くは目を見張ったことだろう。
念のために言っておくと、鈴木はここで「赤報隊」という言葉を使っているが、別にこの人物が鈴木に対して「俺は赤報隊だ」と名乗ったわけではない。そもそも、このリンチ殺人があったのは116号事件の発生より5年も昔の話である。
だから、鈴木がここで赤報隊という表現を使っているのは、あくまで、「この人物が後に赤報隊となった」という意味合いだ。
ついでに言っておくと、見沢知廉も当時は作家デビュー前だったので、まだ見沢という筆名を名乗ってはいなかった。こちらも厳密にいえば「後に見沢知廉となった男」である。
これらの点を押さえたうえで話を進めよう。
「僕らは本気ですよ」
連載によると、この謎の男は、苦境に陥っていた鈴木の前にいきなり現れ、冷たい目で彼を見つめながらこんなふうに提案したという。
「鈴木さんは見沢について“民族派最大の頭脳を失った”と書いてましたね。そんなに大事な男なら我々が奪還してやりますよ」
「そんなことできないと思っているんでしょう。なーに、ハイジャックをして人質をとったら政府は簡単に応じますよ。そして見沢を〇〇〇(国名)へ出国させます。しばらくして密入国させ、鈴木さんたちに返します」
しかし、男のただならぬ雰囲気に恐れを抱いた鈴木は、迷った末にこの提案を断る。すると男は別れ際にこう言った。
「鈴木さん、僕を信用してませんね。じゃーこの話はやめにしましょう。今後僕らは朝日新聞をやります。本気ですよ。何人かは死んでもらいます」
以上が、「SPA!」誌上で描かれた、鈴木と赤報隊(らしき男)との〈第1の接触〉だ。もしこれが実話だとすれば、後年の朝日新聞阪神支局襲撃事件の犯行予告とも受け取れる不気味なエピソードである。
いや、正確に言えばその前にも、この男の予告と関係がありそうな事件が起きている。当時社会を騒がせていた「日本民族独立義勇軍」事件だ。
これは1981~1983年、日本民族独立義勇軍と名乗る謎のグループが、国内の米国総領事館やソ連総領事館などを次々と放火した連続テロ事件なのだが、この中で朝日新聞の東京本社や名古屋本社も1983年(昭和58)8月に放火の被害を受けたのだ。
ちなみに、1987年(昭和62年)から犯行を開始した赤報隊は当初、犯行声明文で「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」と名乗っていた。このため両グループの関係に注目が集まったが、いずれの事件も未解決に終わったため、今も両者の関係は不明のままになっている。
話を戻そう。
さきほど紹介した謎の男と鈴木との〈第1の接触〉は、具体的にいつどこでなされたのだろうか。
実は、鈴木の連載には日時や場所が全く記されていない。
ただ、前後の文脈から考えると見沢知廉の逮捕から2カ月ほど後の出来事だと推測される。見沢の著書「囚人狂時代」によると、彼が逮捕されたのは1982年(昭和57年)9月23日。ということは、鈴木の前に謎の男が現れたのは、この年の11月ごろということになる。
ところが、連載をよく読むと、鈴木が謎の男と会話しているくだりの中に、うららかな春4月なのに背筋がゾゾゾーと寒くなった、という趣旨の記述もある。だとするなら、翌1983年(昭和58年)の4月ということだろうか。
なにやら矛盾した話だが、とりあえず、1982年秋から1983年春にかけての出来事だったと考えるしかなさそうだ。
この「夕刻のコペルニクス」では、これ以降、毎週のように赤報隊のことが語られるようになる。
改めて週刊「SPA!」のバックナンバーをチェックしてみると、1995年6月14日号の連載第33回から11月1日号の連載第52回まで、延々20回にわたって赤報隊の話が続いていた。いわば、「夕刻のコペルニクス」の赤報隊編である。
そして、その中ほどにあたる1995年9月13日号の連載第45回で、鈴木は赤報隊との〈第2の接触〉を描いている。(つづく)
〈補足〉鈴木邦男の前半生
太平洋戦争下の1943年(昭和18年)に福島県で生まれる。著書によると、高校生だった1960年(昭和35年)、右翼少年・山口二矢(当時17歳)による浅沼稲次郎・日本社会党委員長刺殺事件のニュースを見て、同い年の若者が思想に基づくテロを実行して自ら命を絶ったことに驚く。この時の衝撃が後に右翼活動家になってゆく出発点となった。
早稲田大学に進学して上京すると、母親が信者だった関係で宗教団体「生長の家」の学生道場に入寮。右翼学生たちのリーダー格となり、大学で圧倒的な勢力を誇っていた全共闘の左翼学生たちと論争や暴力闘争を繰り広げた。
その後、書店員を経て産経新聞社で働いていたが、1970年(昭和45年)に作家の三島由紀夫が憲法改正などを訴えて陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自決する事件が発生。この時、三島とともに自決した森田必勝(当時25)が、鈴木が早大時代に右翼運動に引き入れていた後輩だったことから、「森田は命をかけて活動を続けていたのに、自分は運動をやめて就職している」と罪悪感にさいなまれ、同じ思いを抱えた仲間たちと1972年(昭和47年)に「一水会」を結成、代表に就任する。
以降、「反米反共」を掲げて防衛庁乱入事件や日ソ友好会館建設反対闘争など過激な右翼活動を展開し、逮捕や家宅捜索を何度も経験した。
一方、「腹腹時計と〈狼〉」(1975年)などの著書により理論派としても注目を集め、従来の戦後右翼と区別して「新右翼」と呼ばれるように。
1984年(昭和59年)には「朝日ジャーナル」誌上で筑紫哲也編集長(当時)と対談、1990年(平成2年)にはテレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ」に出演して右翼とテロの問題を論じるなど、次第にメディアでも活躍するようになっていった。
つづきはこちら→【赤報隊に会った男】③ 第二の接触
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