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【赤報隊に会った男】⑧ 実現したインタビュー

2017年(平成29年)春のある日。
僕は東京・高田馬場駅の近くにある喫茶店の個室で、鈴木邦男と向かい合っていた。
彼は当時、73歳。
僕にとっては父親よりも少し上の世代だが、スーツに身を包んだ鈴木は年齢よりずっと若く見えた。頭髪こそすっかり薄くなっているが、肌に色艶があり、その表情にはまだまだ気力が充実している様子がうかがえる。
同席者は誰もいない。1対1の対面取材である。

警察庁広域重要指定116号事件の発生から今年で30年になります。この節目の機会に、この事件に対する鈴木さんの見方、考え方を忌憚なく聞かせていただけませんか。

こんな内容の手紙を鈴木のもとへ送ったのは、この数週間前だった。
なんの面識もない僕にとって、30年の節目というのは、自然な形で取材を申し込む格好のタイミングである。
僕はこの手紙の中で、赤報隊について論じた鈴木の過去の著作には可能な限り目を通していることを伝え、この未解決事件にいかに強い関心を持っているかを切々と訴えた。それでも、半分くらいの確率で取材を断られるかもしれないと覚悟していた。
しかし、鈴木は快く応じてくれた。そして、インタビューの場所としてこの店を指定してきた。
後で知ったことだが、彼はこの時期、複数のメディアから僕と同じような趣旨の取材依頼を受け、個別のインタビューに応じていたらしい。だから、鈴木にとって僕は「116号事件30年のタイミングで取材にやってきた記者連中の中の1人」ということになる。
ただ、僕以外の記者は主に、赤報隊のテロが日本社会に与えた影響とか、「反日」「売国」といった言葉が飛び交う右傾化した日本社会の現状をどう思うかといった社会時評的なコメントを鈴木に求めたようだ。
そんな中、このタイミングであえて鈴木自身と赤報隊との接点、「赤報隊に会ったことがある」という過去の発言に焦点を当ててインタビューを行った記者は、恐らく僕だけだったのではないかと思う。
もちろん、取材依頼の段階では、こうした細かな狙いは伏せておいた。
あくまでも、社会時評も含めて幅広く「事件に対する見方」を尋ね、会話が進む中で核心に入っていこうと考えていたのである。

活動家の血

インタビューは和やかな雰囲気の中で始まった。
初めて直に接する鈴木は、噂に聞いていた通り、温厚で腰の低い人物だった。
朝日新聞の若手記者が何者かに射殺されたと知った時の驚き。
事件発生直後から新右翼の活動家たちが疑われたこと。
鈴木が代表を務めていた一水会も、事務所やメンバーの自宅が公安警察によって家宅捜索され、仲間が別件逮捕で取り調べられたこと……。
そんな思い出を訥々と話してくれた。

「赤報隊は一水会と関係があるんだろうと言われてましたからね。いきなり容疑者にされて……その戦いがずっと大きかったですね。それは今でも続いていますよ。
警察としては確証があったんでしょう。他の事件でもそうだけど、一番怪しそうなやつを犯人にするじゃないですか。警察はそういうのはうまい。そういう意味では、一水会が一番良かったんじゃないですか」

口調はあくまで穏やかだったが、生涯の宿敵とも言うべき公安警察への憤りが言葉の節々から感じられた。
それを聞きながら、ああ、いくら老いても、いくら丸くなっても、やっぱりこの人には活動家の血が流れているんだな、と妙に感心した。

「あの犯行声明は偽装じゃない」

事件の犯人像について見解を尋ねると、「潜在右翼でしょう」と即答した。
潜在右翼とは、右翼思想の持ち主ではあるけれど、右翼団体に所属しているわけではないし、街頭活動をしてるわけでもない、だから公安警察もその存在を把握できていないという、市井に埋もれた人間のことだ。
多少なりとも表の活動に関わったことがある人間なら、公安に身元を把握されているから、事件を起こせばたちまち捜査線上に浮上するはずだ、と鈴木は持論を展開した。

ちなみに、赤報隊の正体をめぐっては、右翼説のほかに旧統一教会の関与を疑う説も根強い。
1980年代当時、朝日新聞社は霊感商法に対する批判報道を展開していた。これに反発した統一教会が、意図的に右翼を偽装した犯行声明文を用意して事件を起こしたのではないか、という見方である。
しかし、鈴木はこの説を否定した。

「僕は彼らじゃないと思っていますね。
赤報隊は随分行動力があって頭がいいですけど、万が一、捕まることも考えているわけでしょ。その時に自分たちが宗教団体で、右翼のせいにしたとなったらもう言い逃れできないし、めちゃくちゃバッシングされるでしょ。だから、それはないと思って。
僕はああいう信念を持った人間がやったんだろうと思いますね」
――――あの犯行声明は偽装ではなく本当の動機だと?
「ええ、そうですね。やっぱり偽装とかではないだろうと」

鈴木はこちらの質問にひとつひとつ丁寧に応えてくれる。
その語り口は誠実な人柄を映し出すかのように、率直で、落ち着いている。
話に耳を傾けながら、僕はそろそろ本題を切り出す頃だと思った。

――――鈴木さんはかつて、「SPA!」の連載で「赤報隊に会ったことがある」と書きましたよね?

正面に座る鈴木邦男の目を見つめながら、僕はそう尋ねた。(つづく

〈補足〉鈴木邦男の後半生

警視庁広域重要指定116号事件が完全時効を迎えた2003年(平成15年)、鈴木は還暦を迎えた。しかし、その言論活動は衰えるどころか、むしろここから本格化する。その足跡は、最近刊行された「創」2023年4月号の鈴木の追悼特集に詳しく紹介されている。

なかでも目を引くのは、表現の自由を守るための体を張った行動だ。
2008年以降、「靖国 YASUKUNI」「ザ・コーヴ」といったドキュメンタリー映画に対し、右派勢力が「反日映画だ」と上映妨害の動きを見せると、「反日だろうと何だろうと公開したうえで議論をすればいい」と上映支援に奔走。時には、映画館に押しかけたネット右翼らのグループと対峙し、殴られて血を流すこともあった。
右翼団体から「不敬」と攻撃された映画「天皇伝説」(渡辺文樹監督)をめぐって2008年に開かれたトークライブでは、会場でヤジを飛ばす右翼の面々と激論。自分も天皇を尊重する立場だと説明しつつ、「でも、どんな意見でも表現する自由はあるべきだし、対立する意見を力ずくで押し潰し、ものを言わせないというような形でしかそれを守れないんだったら、我々の意見なんてくだらないと僕は思います、違いますか?」と訴えた。
また、在日コリアンへのヘイトスピーチに強く反対し、辛淑玉、佐高信、宇都宮健児らとともに反ヘイトの市民団体「のりこえねっと」の共同代表に就任。排外的なナショナリズムの蔓延に警鐘を鳴らし続けた。
一方、私生活は清貧そのものだった。
妻子を持たず、東京・東中野にある6畳1間の木造アパート「みやま荘」で書物の山に囲まれて暮らしていたことは有名だ。
なぜ、家庭を作ろうとしなかったのか?
実は1984年(昭和59年)に「朝日ジャーナル」の筑紫哲也編集長(当時)と対談した際、独身の理由を問われてこんなことを話していた。

第一、食っていけない。同時に、自分が流されるんじゃないか。(略)
ぼくらの学生運動のころも歯止めを持っていた。まず、大学を卒業しない、社会に出ないということです。だから、六年、七年、八年、留年してる人がいた。次は、せめて企業に勤めないことです。ルンペンや土方をやりながら、革命運動をやる。ところが、それが結婚だけはするまいとか、だんだん自分のタガが後退していくんです。ぼくは第一段階の大学は出ちゃった。第二段階もサンケイ新聞に勤めたから、タガが外れた。販売などに四年半いて、クビになりましたが。これで結婚したら、子どもだけはつくるまい、とかさらに後退してしまう。

「朝日ジャーナル」1984年5月4日号「若者たちの神々」

この時、鈴木は40歳。人生の折り返し点で発した「活動家」としての言葉を彼は生涯守り続けた。

つづきはこちら→【赤報隊に会った男】⑨ 覆された事実関係

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