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ヨルシカライブ、立って見るか、座って見るか

忘れる、消費する/忘れない、自身に取り込む
作品と即興
双方向ではなく多方向の交わり
ナブナさんの意図、過去への執着
作品が生成される現場

※以下の記事にヨルシカLIVE TOUR2024「前世」のネタバレを含みます。

久しぶりにヨルシカのライブに参加してきました。
私が参加したのは大阪公演の1日目ですので、
今回の記事はそれを元に書いております。

前回の2023年に行われた「前世」からヨルシカのライブには行けず、
私にとっては約2年ぶりのヨルシカのライブでした。
その間に発表された曲や画集、ライブ映像はチェックしていましたが、
私の中でヨルシカは画面の向こうの存在になりつつありました。
どうにも私という人間は記憶力に乏しく、
少し前の出来事でさえ濃い霧の向こう側にあるように感じてしまうのです。
だから今回のライブに参加するにあたって非常に大きな期待を抱きつつも、
同時に、すんなりとライブを楽しめるかという不安がありました。

それに加えて、今回のライブから、
ヨルシカのライブで声出しやクラップ、立ち見ができるようになりました。
名古屋公演を終えた後のX(旧Twitter)において、
賛否共に様々な意見が交わされているのを目の当たりにし、
それについて公式からの、少々困惑とも取れる投稿を拝見しました。
参加する前から私はどうしようかと、考えておりました。

私はヨルシカのライブについては、
コロナ後の2021年の「前世」から参加しています。
なのでコンサートのように、静かに席に着きながら鑑賞し、
曲が終わった後に拍手で彼らを讃えるという形式しか知りませんでした。
正直、今回の変更に対しては少々違和感のようなものを感じ、
なぜあの形式ではいけないのだろうかと疑問を持っておりました。
ただ、コロナ前のライブ「月光」では立ち見も声出しもされていたらしい
という旨の投稿も拝見し、
私は知らないだけで、元の形式に戻るだけなのだ、
そうならそれも仕方ないと、自分に言い聞かせて臨んだのです。


結論を言えば、私はこの変更を行ったことに、大賛成です。
最初の朗読が終わってから、すぐにアップテンポの曲が始まりました。
アリーナ席の方々は様子を見ながらほぼ立ち上がって、
私のいたスタンド席は立ち上がる人がまばらという印象でした。
私としては、これらが大好きな曲だったのもあって、
立ち上がって全身で音楽を楽しみたかったのですが、
後ろの席の人たちのことを考えるとそれができませんでした。

しばらくそんな調子でライブが進んでいきました。
素晴らしいライブ(前回に劣らず、それ以上に!!)が行われている前で、
なんと小さなことにこだわっているのかと、
私は自己嫌悪に陥っていました。
もっとヨルシカの音楽とその世界に没入したいのに、
それができないことに悔しさを感じました。

そんな時ふと、スタンド席でまばらに立ち上がっている人に目を向けました。
ああいう風に、ライブ慣れしている人は自分の楽しみ方ができていて、
一人で立ち上がることもしてしまえて、羨ましいなと思いました。
その時に、ようやく気がつきました。
私もまた、私なりに自由に楽しんでいいのだということに。

頭や身体を揺らす人、手を大きく上下に振る人、
曲の途中、盛り上がるタイミングで立ち上がる人、
通路に少しはみ出して頭の上で大きく手を手を叩く人。
みんな自分のやり方で楽しんでいました。
周りに合わせる程度も、配慮の仕方もそれぞれで、
それがバラバラながらも一つの観衆となってうねっていました。

そうか、これでいいのだと納得しました。
これは私たちに与えられた観客としての余地、あるいは自由であり、
suisさん、n-bunaさんもそれを見てライブを今行っているのだと思いました。
セトリもセリフも決まっているけれど、
私たちが楽しんでいるという生の表現もライブの一部であり、
そのエネルギーが伝わって、
演者のパフォーマンスが変わっていくこともあるのかもしれないと。
観客がいなければ、劇は始まらない。

suisさんが、n-bunaさんが、私を見ている。
そのことを意識しました。
目が合ったわけでも、姿が認められたわけでもないけれど、
彼らと一つの線で繋がった気がしました。
そしてまた、前や隣で同じライブを見ている人とも、
私は繋がっていました。
お互いの行動を意識、配慮しながら、
音楽が生成される現場に私たちは立ち会っていました。

それは一つのセッションのようでした。
ヨルシカの曲というテーマに、
即興で感情を表現する観客と、
それを感じながら演奏するバンドメンバー。

「ルバート」の管楽器ソロが終わったところで、自然に沸き起こる拍手。
「晴る」終盤、圧巻のアカペラが終わった後の拍手は、
他の曲よりも少し長かった気がします。
こんな私でも、この体験を忘れることはおそらく無いでしょう。

忘れる、これは今回のライブにおける一つのテーマでしょう。
つまりは、消費するということ。
いつかは消えて無くなるもの。
花。季節。音楽。記憶。

今まで出会ったものを全て抱えて生きていけたら、
それはなんて素敵なことなんだろうかと思います。
しかしそれは美しくは無いのでしょう。
流れているから、音楽は楽しい。
忘れているから、昔日は美しい。
ならば、手の中から砂がこぼれ落ちるように、
絶えず消費してしまうものの中から何かを得て、
それを糧に生きてゆけたら、
消費は全くの無意味であったことにはならない。
そう思うのは、都合が良すぎるでしょうか。


今年見た百日紅、高山市内にて


n-bunaさんは、過去の自身が作った作品について、
それが評価されることにあまり興味がないと仰っていたのを、
以前どこかで読んだ気がします。
ならば何故、過去の曲を用いてライブをしてくれるのだろうと、
有り難がりながら、ずっと疑問に感じていました。

今回それがなんとなく分かったような気がします。
つまり、ライブでその都度作品が新しく作り直されるということです。
前のライブの感想にも同じようなことを書いたような気がします。
「前世」を通して、今までの作品に新たな解釈を加えることで、
それぞれが今までとは違った輝きを手に入れるのだと思っていました。
しかし、これでは「消費する」という構造は変わっていない。

ライブにおいて観客がそれを目撃し、表現することが抜け落ちていました。
この「作り直し」は、別々の人生を歩んできた演者と観客が一堂に会して
初めて可能となるものであり、
ここからライブの経験を胸にまた別々の方向へ歩んでゆく。
これが人生と芸術の関係なのではないでしょうか。
芸術が人生を模倣するのではない。
人生が芸術を模倣するのでもない。
人生と芸術が互いに響き合って、昇華させてゆく。
(蛇足ながら、素敵なライブを届けてくれた関係者の皆々様も不可欠な存在です、本当に有り難いことでございます)

今回のライブで、このような形式の変更によって、
こんなことを思っているのも、n-bunaさんの策略でしょうか。
なんとなく手の上で転がされているような気がしますが、
私にとっては人生における重大な発見のつもりです。

以上、考察にすらならない私の感想でした。
参加した人それぞれに様々な感想があるのでしょう。
それはあらわされて然るべきであり、
それを受けてヨルシカが今後どのように変わっていくのか楽しみです。
私もまた、自分の人生を変えていけるように努力してみたいと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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