幸せの国のニポン?
幸せには
・given してもらう幸せ
・can できる幸せ
・give してあげる幸せ
の3種類があると、いつだったか教わった。
確か現代アートの授業中だったかな。
藤井風が歌っている「与えられるものこそ与えられたもの(What I can give is what I was given)」が好きなんだけど、幸せのなんたるかを説明したい時はこのワンフレーズで十分な気がする。言い得て妙。
私が人一倍恵まれているのか、はたまた恵みをキャッチするセンサーが人より敏感なのかはわからないけど、どちらにしても今日みたいにgiveのギアが上がるとき、この歌詞を思い出しては自分が受け取ってるものが尊いことを知る。give⇄givenの循環の中で生きてるから幸せなんだろうなとも思う。
幸せといえばもうひとつ。
GNH(Gross National Happiness)っていう、幸せの国ブータンが政策の中心に据えている胸熱な指標。
これが功を奏しているというのがとっても素敵でね。日本も人口が減っているのを機に生活の規模を縮小して、幸せの軸を「テクノロジーと経済の発展」から「心身の健康と環境保全」に移行させたらどうなんだろうと、資本主義に疲れた人間を見た時によく考える。
まだ表面的なことしか知らないけど、ブータンと日本の価値観は親和性が高いような気がしてる。
↓これ見たらわかる、行ったこともないのに何故かノスタルジーすら感じるブータン…。
大学の授業で国の水道事業に関わる人から聞いた話によると、日本のインフラ管理に携わる人口の減少と高齢化っていま半端ないらしい。規模感は戦後爆発的に増えた人口に対応したものなんだけど、少子高齢化の現代では持て余しているような状態。それを、年老いゆく且つ減りゆく専門家で管理せざるを得なくなっているんだとか。
世間と政治は如何にヒトを増やすかという議論に流れがちだけど、この時初めて、ヒトを取り巻くモノを節約するのはどうかしらっていう逆の発想にたどり着いた。西洋的な見解をすればこれはきっと後退だから怪訝な顔をする人の方が多いだろうけど、人口を落ち着けてリソース削減して食料とエネルギーの自給率が上がったら「他国に生活の手綱握られてる」感から来る昨今の心許なさ、多少緩和できるんじゃないかなぁ。みたいな意見が出てきても良いんじゃないかとぼんやり考えた記憶がある。
何かに対して謀反を企てようとしているとか全然そういうわけではないんだけど、必要以上の競争とか革新の追求って毒になりうるなと個人的に思う、それ故の考えです。
それこそ、情報鎖国が解かれて外国の暮らしを知ったブータン人の幸福度がその後下がってしまったのは有名な話で、知らない方が幸せなことはそこら辺にゴロゴロ転がってる(戦争やプロパガンダについても、調べてると分かりやすく鬱々とした気分になってくる)。だけど、知ってしまったからこそできるバランスの取り方もあるんじゃないかと思うし、少なくとも私生活ではそれを模索し続けたい。
物よりも心の豊かさを目指す生活は私の憧れ。個人や家庭の単位で実践する人が増えている気もするけれど「サァ国政にも反映だ!」と主張するにはまだまだ勉強が甘い自覚はあって、自分も全面的にそうすべきだとは思っていないから人に話したことがなかった。
部分的でも、どこかに共感してくれる人がいたら嬉しいな。あともしこれが危険思想だったら誰か早急に教えてください。
2024/06/06 thu.
加筆修正 2024/11/11 mon.
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