短編 3

 ユウに初めて出会ったのはたしか、ヴァインマイスター通りのカフェだった。小遣い稼ぎに引き受けていた翻訳に行き詰まり、一人がけのテーブル2つを占領し、資料を広げ、頭を抱えていた私の斜め前に彼女は腰を下ろした。

 こんなに席が空いているのに相席なんて……

 顔を上げ、彼女を見つめた。ショートボブの一部分だけを真っ赤に染め、レザーのライダース、チュールのミニスカートにボーダーのタイツ、マーチンの8ホールという、黒と白のみで構成された服装の彼女は、午後の穏やかなカフェの中で少し浮いていた。

 しかし、彼女はそんなこと気にも留めない様子で、私に微笑みかける。私は曖昧に笑みを返し、仕方なく翻訳中の書類に目を戻す。面白くも何ともないその内容にいい加減うんざりしていた。

「日本人?」

 不意に彼女が口を開き、私は驚いた。彼女の顔立ちから、どうやら日本人らしいと思ってはいたけれど、日本語を聞くのは本当に久しぶりだったから。視線だけ上げると、彼女は口元に静かな笑みをたたえてこちらを見つめていた。

「日本人?」

 もう一度聞いて来た。 さっきより、はっきりと。

「はぁ、まぁ」

 なぜか変な受け答えになってしまい、慌てて冷めた紅茶を飲み干した。

「そう」

 彼女はほっとしたような、しかしどこか残念そうな、不思議なため息をもらした。

「日本の、どこから?」

 さらに彼女は聞いてくる。ドイツにいるからにはあまり母国語を話したくはなかったのだけれど、一方では、異国の地で聞く懐かしい響きに耳が喜んでいるのも事実だった。

「西のほう」

 うっかり答えてしまった。

「西のほう……」

 口の中で私の言葉を飴玉のように転がして、彼女はまたコーヒーを啜った。

「ね、よく中国人に間違えられない?」

 嬉しそうに聞いてくる。たしかに、この町で初対面の人間に日本人かと聞かれたのはこれが初めてだった。

「間違えられるね、中国人に。こないだなんて「ニイハオ」って声かけられて……」

 彼女は大げさにうなずいてみせる。

「わかるー。あれだよね、黒髪でアジア系の顔立ちだったらみんな中国人って思うのやめてほしいよね。ほんと困る」

 はっきり言って、私は中国人に間違えられてもそこまで迷惑だと思ったことがなかったのだけれど、ほんと困る、の言い方が心底迷惑そうだったので、思わず笑ってしまった。

「ねぇ、今から時間ある?」
「今から?あるけど……」
「じゃあさ、うちにおいでよ。すぐそこだから」

 ごく当然な流れのように誘われ、私は躊躇しながらも、どこかで既にこの出会いは面白い方向へ流れていきそうだと感じていた。そういう勘は、冴えているほうだ。

 20分後、私は彼女の部屋にいた。

 甘い匂いが部屋中に漂っている。その匂いを、私は知っていた。「葉っぱ」を炙った匂い。外国に来てもそういうことにだけは関わりたくない、と頑なに思っていたので、きっと怪訝そうな顔をしていたのだろう、それに気付いた彼女は笑って言った。

「大丈夫大丈夫、彼氏しかやってないから」

 何がどう大丈夫なのかよくわからないけれど、とりあえず「そう」とだけ答えて腰を下ろす。
 彼女は、おもむろにギターを取り出し弾きはじめた。しばらくチューニングをしたり、弦をつま弾いたり、まるで私の存在などきれいさっぱり忘れてしまったかのようだった。
私は所在なくなって、ソファに座って足をぶらぶらさせていた。

「ねぇ、歌ってくれない?」

 突然言われ、びくっと身体が反応した。

「びっくりした。なに?」
「ごめんごめん、ね、それより歌ってよ」

 そう言うと彼女は、ギターを弾き始めた。それは私のよく知っている、というより大好きな曲だった。

 あなたがそっと笑ってくれるから
 あくる朝とうに泣きやんでいるのさ
 この小さな轍に
 あなた息をしている

 聞き慣れたメロディに、自然と歌が口からこぼれる。手を止めて、彼女は笑った。

「やっぱり。話したとき、ああこの人は絶対に歌が上手いってすぐにわかったの。習ったりしてた?」
「まさか。好きなだけだよ」

 すぐに否定したけれど、嫌な気はしない。

「私は音楽をやりにきたの、ここに」

 そう言うと、彼女は自身のこれまでを唐突に語り出した。 見た目にこだわる日本人の気質が嫌いでイギリスに渡り、最近ベルリンに越してきたこと。もう何年も日本には帰っていないこと。少々「複雑な」家庭で育ったこと。

「日本人が嫌いなら、どうして私に話しかけたの?」
「ドイツ語、全く話せないから。あなたは大人しそうだけど、でも面白そうだったし」

 そんなこと、一見しただけでわかるわけないだろう、と少し呆れたけれど、話しかけてもらえてよかったと素直に思った。

「あたし、ユウ」
「なぎさ」
「なぎさ、よろしくね」

 それからというもの、家が近かったこともあって、ユウとはちょくちょく会うようになった。甘い匂いの漂う、彼女の部屋で。煙草を何度か勧められたけど、いつも断った。

「煙草の葉っぱしか入ってないってば」

 ユウは嬉しそうに言う。

「どっちみち、私、煙草嫌いだから。外国にいるっていう浮かれた気分に流されて吸いたくないし」
「あんたのそういうはっきりしたとこ、好きだよ」

 ユウの弾くギターは繊細だった。両耳には隙間がないほどピアスがぶらさがっていたけれど。 キャミソールの胸元からちらっとタトゥーも見えた。
 きっとこの子は、私とは全然違う道を通ってきて、全然違う角度から世界を見ているんだろうな、と思った。

 ある日、ユウは初めて私に歌を聞かせてくれた。

「弾くのは好きだけど、歌うのはだめなの」
と、恥ずかしそうに前置きして。

 I'm in love with the world through the eyes of a girl
 Who's still around the morning after
 We broke up a month ago, and I grew up - I didn't know
 I'd be around the morning after

 煙草で掠れたその声を、私はとてもセクシーだと思った。

「Elliott Smithの、say yes」

 エリオット・スミスというアーティストを、この時初めて知った。インターネットで調べて聞いてみると、すごく苦しくて切ない歌い方をする人だった。

 脆い。

 映画「グッド・ウィル・ハンティング」に楽曲を提供したことで脚光を浴びたらしいが、薬物やアルコール依存に陥り、最後はナイフで自殺ー他殺の可能性もあるらしいーした。

「これを、歌ってほしいの。あたしのギターで」
「えっ、私に?」
「あんた以外、誰がいるの?」
「無理だよ。英語の歌、歌えないもん。それに、この曲にはユウの声の方が合ってる」

 それは本心だった。

「そんなに英語もドイツ語もぺらぺらなのに?わけわかんない。それに、合ってるとかじゃなくて、あたしはなぎさに歌って欲しいの」

 細い指にシルバーの指輪が光っている。ヴィヴィアン・ウェストウッド。

「わかった。歌う。歌うよ」

 その日から私はひたすらsay yesを聞きまくった。母国語以外の言語で歌いたくないのは、上手く気持ちを乗せられないからだ。
 それでも、時にはそれが良い方向に働くのだということも知った。その時の私は、苦しいほど日本語に憑りつかれていた。身体に纏わりついて服の中にまで入ってくるヘドロのように重たい言葉たち。

 たぶん、それらから逃れる必要があった。考えすぎていたのだ。 色々と、複雑に。言葉が、日本語が好きすぎるあまりに考えすぎて、煮詰めすぎて、濃くどろどろにしてしまっていたのは私自身だった。
 私は歌を生業にする気などさらさらないので、ユウとのセッションはとてもいい換気になった。そこからきれいな水を取り入れることもできた。
 行き詰まったら、一度離れてみるのも「あり」なんだ、とその時初めて気づいた。
一度離れても、自分が離さない限りは大丈夫なんだ。停滞していた私のドイツ生活に少しずつ風が入り始めるのを感じた。

 私のやりたいこと。
 私、なんのためにドイツに来たんだっけ。

 そんなことを考えながら、久しぶりにゆっくり眠れそうな夜だった。お気に入りの毛布にくるまって、静かに目を閉じる。

 真夜中。

 けたたましいノックの音で目が覚めた。時計を見ると、来客を迎えるにはありえない時間だった。
 しかし、ノックは鳴りやまない。

 夢じゃない。

 おそるおそるドアを開けると、ユウが立っていた。

「どうしたの?こんな時間に」
「とりあえず中へ入れてよ。寒い」

 同居人が起きてくるといけないので、私たちはそっと部屋へ戻った。

「なに?なんなの?」

 まだ眠い目をこすりながら私が聞く。

「ちょっとね、逃げてきたの」
「逃げる?何から?」
「現実から」

 彼女を見ると、眼の周りがほんのり赤かった。

「泣いてるの?」
「ううん。今は泣いてない。少しだけ、さっき」

 キッチンでココアを淹れてきた。彼女はそれを一口飲むと、ほぅっと息を吐いた。

「こんなにおいしいココアを淹れられるのは、心が優しい証拠ね」
「ただのインスタントだけど」

 二人で少し笑って、それから慌ててしぃっと指を口に当てる。

「ガンだって」

 まるで、明日は晴れるって、と言うみたいに、さらっとそれを口にした。

「ガン?って、あの、病気の?」
「うん」
「え?」

 頭の中で、エリオット・スミスが "Situations get fucked up" の部分だけを何度も歌っている。

「あ、あたしじゃないよ。彼氏彼氏」
「あ、ああ」

 ほっとしてもいけないので、なんとも言えない曖昧な相槌を打つ。
 一度だけ会ったことのある彼の顔を思い浮かべようと思ったけど、上手くいかない。ぼんやりと思い出すのは、「葉っぱ」のせいでとろんとした眼と、落ちくぼんだ眼のまわりだけ。ひどく痩せた人だったな。

「あと3か月だってさ。もう手遅れ」

 声が歪んでいくのがわかる。
 でも、彼女は泣かなかった。

「わけわかんないよね。死ぬんだってさ」

 何も言えなかった。肩を抱こうかと手を伸ばしたが、それが何の意味も成さないことを知っていた。

「貧乏だし、どうしようもない奴なんだけどさ、終わりが見えたら、びっくりするぐらい寂しいの。夜中にね、起き上がってはトイレで吐くんだ。げぇげぇ言う音で目が覚めてさ。それでも、ベッドに戻ってきたら私に優しく腕を回すの。守ってやるよ、みたいな感じでさ。苦しくなって逃げてきちゃった」

 マグカップを握る彼女の指に視線を落とす。中指には今日もヴィヴィアン・ウエストウッドが鈍く光っている。
 何か言わなきゃ、と口を開きかけた時、彼女が言った。

「ねぇ、歌ってよ」
「え?」
「歌って。なぎさの歌が聞きたい」
「歌ってって……だってこんな真夜中に?同居人は寝てるし、ギターは?」
「置いてきた」

 私たちはしばらく黙った。どうしたら良いのかわからなかった。沈黙は部屋の空気を濃くし、その空気に押し潰されて窒息しそうだった。

「わかった」

 絞り出すように言った。

「外へ行こう」

 彼女はちいさく頷いた。財布と鍵と、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出してコートのポケットに入れた。
 外に出ると、大きくひとつ深呼吸をして歩き出した。寒さが、コートを突き抜けて身体を刺してくる。
 それでも、あの暖かい部屋よりずっと息がしやすかった。私たちはわざと、大股でずんずん歩いた。
 気がつくと手を繋いでいた。彼女の手は、ひどく冷たく、少し震えていた。

 家から歩いて20分ほどの公園に着いた。週末はフローマルクトで盛り上がっている公園も、今は誰もいない、だだっ広い真っ暗な空間だった。
 芝生に腰掛けて缶ビールを開ける。プシッという、今の状況も何も関係ない、間の抜けた音。
 日本よりずっと寒いドイツの秋の、しかも真夜中に、冷えた缶ビールは明らかに場違いだったけれど、ふたり揃って「美味しい」と口にした。
 ほとんど痛みのような寒さの中で、ユウが私を見る。吸い込まれそうな、黒い瞳。苦しくなって立ち上がり、私は歌い始めた。

 I‘m in love with the world through the eyes of a girl

 声はするすると私の喉から冷たい空気の中へと溶けていく。

 気持ちいい。

 寒さも忘れ、夢中で歌った。

 Situations get fucked upまで来た時、

「何をしている」

 不意に声が聞こえ、振り返ると警官が一人立っていた。

「あ……」
「君たち、ここで何しているんだ。家出してきたのか?」

 ここドイツでは、いつだってずっと歳下に見られる。

「ねえ、なんて言ってるの?」

 ユウが小声で聞いてくる。

「家出してきたのか、って」

 私も小声で答える。

「聞こえないのか。ここで何をしているんだ、こんな夜中に」

 私が答えようとしたその時、ユウがまたも小声で言った。

「行こう」
「えっ」

 言うが早いか、ユウは私の手を取り走り出した。

「ちょっと!待ちなさい!」

 後ろで声が聞こえる。振り向かず、私たちは走り続ける。

 どんどんどんどん。

 冷えた石畳を蹴る足がじんじん痛む。走って走って、見慣れた通りに出た。警官は諦めたのか、もう追ってこない。はあはあと肩で息をする。鼻の奥がつーんと痛い。

「……はは」

 ユウが、笑った。

「ははは」

 息を切らしながら、私もつられて笑う。ふたり声を出して笑った。オレンジの街灯が滲んでいるのを見て、私は、自分が笑いながら泣いているのに気づいた。
 何の涙だかわからない。でも頬をつたうそれはとても熱かった。
 不意に、ユウが私にキスをした。柔らかくて、冷たい唇。びっくりしてユウを見ると、彼女は肩をすくめてみせた。ユウもまた、泣いていた。

「帰るね、あいつが待ってる」

 呼吸が落ち着くと、ユウはそう言って歩き出した。8ホールのマーチンが遠ざかっていく。
 少し歩いたところで、振り返り、言った。

「なぎさに会えて良かった」

 そして、また歩き出す。今度は振り返ることなく、真夜中の町に吸い込まれていった。

 次の日の朝、私は見慣れた部屋で目を覚ました。あれからどうやって帰ってきたのかは、いまいち覚えていない。身体が芯まで冷えたせいで、私は風邪をひいていた。
 ココアを入れようとキッチンに行くと、同居人のエマが朝食をとっていた。

「おはよう」
「おはよう。どうしたの?ひどい声」
「ん。風邪をひいたみたい」

 昨日のことは、どうやら彼女は気づいていないらしい。

「そう、今日はゆっくり休んでね」
「ありがとう」

 インスタントココアを淹れて、部屋に戻る。毛布にくるまり、ココアを一口啜った。

「こんなにおいしいココアを淹れられるのは、心が優しい証拠ね」

 ユウの言葉が頭をよぎる。

「ただのインスタントだよ」

 そう呟いて、笑った。きっとユウには、もう二度と会うことはないだろう。
 けれど私は、昨日の夜のことを、ユウのことを、きっとこれから何度も思い出す。何となくそんな気がした。

 I'll probably be the last to know
 no one says until it shows and you see how it is
 they want you or they don't

 say yes






*引用*
ギャンブル / 椎名林檎
say yes / Elliott Smith

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