友がみなわれよりえらく見ゆる日に
今年度末をもって今の仕事の契約が切れる。
長男の育児休業が終わる直前、保育園も決まって「さあ復職するぞ」と意気込んでいた矢先に前の会社が廃業するという、なかなかの不運に見舞われた私が慌ててハローワークに駆け込み見つけた今の仕事。
休みの取りやすさと自宅から自転車で通えるという立地条件(と、保育園取消になりたくない!という切羽詰まった状況)で選んだ職場だったけれど、英語を使った業務も多く、持っているスキルを活かして仕事をすることができた。
5年という契約期限の間に次男も生まれ、しっかりと産休育休を取らせてもらえたし、とても感謝している。
そうこうするうち、ついに今年その5年目を迎えた。働くことはきらいじゃないし、家計の事情もあるし、来年からもやっぱり仕事をしたい。
「さて、どんな」
一体、自分に何ができるんだろう。なんとなく、歳月ばかり重ねてここまで来てしまった気がして、ここ最近ずっと薄い靄の中にいるようだ。求人情報に目を通してはため息を吐く。そんな時に、とあるインタビュー記事に載っていた言葉が目に留まった。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
石川啄木の『一握の砂』の一節。ハッとした。私を覆う靄の正体が見えた気がした。「友がみなわれよりえらく見ゆる」こと――私のまわりには素晴らしい人、面白いことをやっている人がたくさんいて、尊敬の念を抱く一方で、いつの間にか心の中で劣等感の種が芽を出し、すくすくと育っていたのだ。
「まわりと比べてどうか」「自分は人からどう見えるか」に囚われすぎるあまり、自分にできること、自信を持って良いことを過小評価したり、「上には上がいるからこの仕事は無理だ」なんて諦めてしまったりしているのではないだろうか。
闇雲に仕事を探す前に、まずは自分自身ときちんと向き合ってみよう。したいこと、できること、自分が置かれている状況による制約――それらのバランスを上手くとりながらできる仕事は何だろうか。もう少し考える時間はある。
意外とネガティブな私のことだからまたすぐに靄の中に入ってしまうだろう。そんな時はこの言葉を思い出して、花でも見つめながら(私たちのことだからお酒を片手に)夫と話をするのも良いかもしれないな、とほんの少し心が軽くなった。