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【ショートショート】1985年の贋作小話 その97 「アメリカの鱒釣り」

 川は飛行甲板を斜めに横切るように流れていました。発艦用と着艦用の滑走路の間にできた深い谷の底を、船尾から船首に向けて水はゆったりと動いていました。それは大陸を流れる川と遜色ないほど豊かな川でした。広い川幅にたっぷりとした水深、深瀬の下流にはさざ波をたてた浅瀬がしばらく続き、その向こうには鏡のように静かな淵が流れていく雲を映していました。そして、そこにはよく育った鱒がたくさんストックされていました。ですから、航空母艦ウォーターゲートの乗組員たちは、非番になるとこぞって川原に立ち、しばしの休息を鱒釣りに興じるのでした。
 その日、通信係の下士官ロナルド・ウーノ氏は日が昇る前に川原で竿を継いでいました。久しぶりの非番を思う存分楽しもうと早起きをしたのです。発着訓練までにはまだだいぶ時間がありますから、しばらくは静かな釣りが楽しめそうです。彼は竿にリールをセットし、ガイドに糸を通し、その先に毛ばりを結び付けて太陽が顔をのぞかすのを待ちました。最初のひと振り、毛ばりは流心の向こう側に着水し、水面に落ちたカゲロウを演出しました。すぐに大きな鱒が水面を割ってからだを反転させました。彼はすかさず竿に合わせをくれました。鱒は水底深く潜ったり水面にジャンプしたりを繰り返して抵抗しましたが、手慣れたロナルド・ウーノ氏は少しも慌てることなく糸をピンと張り続け、ものの五分ほどで大きな鱒を網の中に収めました。今日はいい一日になりそうだ、彼は鱒を川に帰してやりながら自身の穏やかな心持に満足していました。
 日が昇るにつれて甲板の様子があわただしくなってきました。訓練の準備が始まったのです。谷の底からではその様子は見えませんが、風に乗ってざわめきが伝わってきます。それでも、その日のロナルド・ウーノ氏には関係ないことでした。彼は竿を振り続け、いつになく素晴らしい釣果をあげていました。
 海上勤務もまんざらではないな、とロナルド・ウーノ氏は思いました。仕事の緊張感は心身ともに疲労させますが、国を守る任務に使命感を感じていました。疲れた心と体は鱒釣りで癒せばいいのです。それも、車で遠出などすることなく、寝床からほんの数分でこんなに素晴らしい川に到着できるのです。数か月後には船を降りなくてはいけないことが、彼にはとても残念に思えました。
 浅瀬と淵の境目に毛ばりを沈めていたときのことです。水面に浮かせた黄色い糸がするすると水に引き込まれていきました。ロナルド・ウーノ氏は大きく竿を合わせました。手ごたえは十分だったのですが、糸の先が動く気配はありません。沈んだ枯れ木にでも引っかかったのかと竿をあおってみた瞬間、糸は猛烈な勢いで下流に向けて突っ走りました。大物に違いありません。手元に手繰っていた糸がみるみるうちにさらわれていきます。このままでは糸が尽きて、仕舞いには切れてしまいます。彼は全速力で河原を下流に走りました。しかし、それでも間に合いません。彼は鱒との距離を縮めようと腰まで水に立ちこみました。鱒はいちども影を見せることなく、ぐんぐんと下流に向かいます。彼は不自由な水の中を何度も転び、全身ずぶぬれになりながら無我夢中で追いかけます。何としてもこの大物を手中に収めたい、その一心でした。
 谷の上では着々と訓練の準備が進んでしました。艦載機はエンジンを焚き、順繰りに滑走路に向かいます。その爆音は谷の底をも埋め尽くしていたはずなのですが、ロナルド・ウーノ氏の耳には入りません。彼は首まで水につかり、半ば泳ぐようにして鱒に引っ張られていました。
 あまりに我を忘れてしまっていたがために、ロナルド・ウーノ氏はあとほんの少し先で川が瀑布となって海に注いてでいることに気がつきませんでした。鱒はこれまでにない力で一直線に下流に向かっています。彼の両手はもう、竿を放すことができませんでした。彼は自分の身長ほどもある金色の鱒が、流れの終わりから勢いよく空に向かって飛び出すのを見ました。そして、金色の鱒とともに瀑布を落ちていくとき、最初の艦載機が甲高い爆音を連れて空高く舞い上がっていくのを見たのでした。

                           おしまい
 
 

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