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【ショートショート】1985年の贋作小話 その86 「欲望という名の電車」

 金曜日の夜の終列車。向かい合った座席に三人の男女が座っていました。

 二十三歳、男性。入社一年目だというのに残業の連続でした。初めての仕事をわからないなりに頑張ってみるのですが、どうしても時間がかかってしまいます。今日も昼休み返上でかかりっきりでした。当然昼飯抜きです。もうおなかと背中がくっつきそうです。向かいの座席の中年男がコンビニのおむすびを頬張っています。傍らのレジ袋にはもうひとつおむすびが入っているようです。余分に金を出すから売ってくれないものだろうか、と彼は卑しいことを考えます。それほど空腹は限界にきていたのです。

 四十八歳、男性。あと一歩のところで女に逃げられてしまいました。以前から目をつけていた会社の部下です。さあこれからというところで瞬く間にタクシーに乗り込んで帰ってしまいました。あとに残ったのは空腹と満たされない欲望だけでした。空腹はコンビニのおむすびでどうにかなりますが、もう一方の欲望の処理はやっかいです。斜め前の席に若い女性が座っていました。女性は必死で睡魔と戦っているようでした。ふくよかな胸がブラウスのボタンとボタンの間にすき間を作っていました。

 三十四歳、女性。もう若くはないのだと思い知らされていました。少し夜遊びをしただけなのに、もう疲れてしまって眠くてしかたがありません。でも、今眠ってしまうと間違いなく乗り過ごしてしまいそうです。傾く頭が時折となりの若者の肩に触れてしまいます。ほんの一瞬ですが、見知らぬ男性の肩に彼女は安らぎを感じました。若くてたくましい男の肩に顔をうずめて眠ってしまえれば、どんなに幸せだろう。女性は自分を疲れさせているのは、決して夜のバカ騒ぎだけではいことに気づきました。

 車掌が次の到着駅をアナウンスしました。
 中年男が腰を浮かせました。中年男はよこしまなことを考えていました。出口に向かうために女性の前を横切るその刹那に、女性の胸に少しだけ触れてみようと。睡魔と戦っている女性が気づくわけがありません。ほんの少しだけでいいのです。今日はどうしても女のからだに触れずにはいられません。中年の男は左手の指先に全意識を集中させて、女性の前を通り過ぎようとしました。

 腰を浮かせた中年男は、傍らのコンビニの袋を忘れているようでした。若者はそれを見逃しませんでした。幸い隣の女性は眠っているようです。中年男が去ったあとにおむすびを失敬しても、誰も気づく人はいないでしょう。若者は中年男が女性の前を過ぎようとするのを待って、手を伸ばしました。

 もう限界でした。乗り過ごしたって構わない、つかの間の幸せを私は選択するのだと女性は覚悟を決めました。若者はもしかすると嫌がるかもしれません。でも、邪険に私の頭を振りよけるようなことはしないでしょう。年を重ねて羞恥心が薄れてきたのかもしれません。でも、それでもいいのです。私は私の幸せをどん欲に追い求めるのです。女性は緊張させていたからだの力を抜いて、若者の肩に寄りかかっていきました。

 その時、ゴトンという音を立てて電車が大きく揺れました。電車は急ブレーキをかけたようでした。何か事故でもあったのかもしれません。
 中年男の左手は空振りを食らい、そのままからだごと通路を超えて向こうの席に座っていたおばあさんに覆いかぶさってしまいました。若者の伸ばした手は、つんのめった拍子にコンビニの袋を押しつぶしてしまい、ぐしゃっという音をたてました。女性の頭は勢いよく若者のお尻のあったあたりに倒れ込み、振り子のように跳ね上がった足のせいでスカートがめくれあがってしまいました。
 金曜日の夜の三人の欲望は、こういうわけで叶えられずに終わりました。

                           おしまい


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