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【ショートショート】1985年の贋作小話 その83 「魔笛」

 三時間目の授業がはじまるまであと五分しかありません。たけしくんは焦っていました。リコーダーを持ってくるのを忘れてしまったのです。今日はリコーダーのテストで、ひとりずつ前に出て『ドナドナ』を吹かなくてはいけないのです。でもかばんの中をどこをどう探しても見つかりません。家に取りに帰る時間はありません。仕方ない、先生に大目玉をくらう覚悟を決めた時に声をかけてくれたのが、たけしくんが恋焦がれるみどりさんでした。
「どうしたん、たけしくん。ひょっとして、リコーダー忘れたん?」
「あ、いや、あの、その・・・」
 みどりさんに話しかけられるだけで真っ赤になってしまうのに、恥ずかしい失態を知られてたけしくんはしどろもどろです。
「よかったらうちのを貸してあげるよ。たけしくん、うちの席のすぐ後ろやろ? うちが吹くの終わったら、みんなにわからんように机の下から渡してあげるから」
 こんな幸福があっていいものだろうか。たけしくんは突然降ってわいた幸福に有頂天になりました。みどりさんのリコーダーを借りるということは、つまりそれは、もう他人ではなくなるということに他なりません。たけしくんの心臓はもう飛び出さんばかりでした。

 ついにこの時がやってきた、ついにこの時がやってきた。たけしくんは授業どころではありません。いつもあらぬ妄想ににやついてばかりいるたけしくんでしたが、いざそれが現実になるとむしろ頬はこわばり目が据わっているのが自分でもわかります。みんなのヘタクソな『ドナドナ』など耳に入りません。自分の順番が近づいてくる緊張には、うまく演奏できるのかという心配はかけらも混じっていませんでした。
 みどりさんの番が終わって席に帰ってきました。「ぬぐわなくていいから!」たけしくんの心の叫びもむなしく、みどりさんはハンカチで吹き口をぬぐってしまったようでした。みどりさんは靴下をなおすふりをして少しかがみこむと、たけしくんの机の下にリコーダーをそっと差し出しました。リコーダーにはまだみどりさんの指のぬくもりが残っていました。あと数分でみどりさんとオレはひとつになるんだ。それはほんのすぐ先のことのようでもあり、何だか遠い未来のことのようでもありました。
 壇上に上がったたけしくんは、みどりさんのリコーダーを構えました。もう『ドナドナ』がどんなメロディーであったのかは思い出せません。笛のテストなどどうでもよいのです。音楽の成績よりも、目の前に迫った人生の転機のほうがよっぽど重要だったのです。
 運命の時、リコーダーに口をつけようとしたそのときです。たけしくんは、吹き口の隅っこに、ほんの少しだけ光るものを発見しました。それは、ぬぐい残したみどりさんの唾液に違いありませんでした。たけしくんはそれを見た瞬間、我に返りました。光る唾液の生々しさが、たけしくんを現実に引き戻したのです。
 オレはこんな姑息な手段でみどりさんとひとつになっていいものだろうか。みどりさんの優しさを利用して、オレは卑劣なことをしようとしているのではないだろうか。オレはもっと正々堂々とみどりさんとひとつになりたい。オレは卑怯者だ、オレはヘンタイだ・・・。
 たけしくんは吹き口に口をつけないまま、思い切り息を吹きかけました。リコーダーは情けない尺八みたいな音をたてました。それでもたけしくんは吹き続けました。買われていく子牛に心を寄せて、最後まで情けない尺八の音で『ドナドナ』を吹き続けました。
「たけしくん、あなたふざけてるんですか」
 先生が怒るのも無理はありません。音楽の成績は引き続き「1」に決定です。

「ごめんね、たけしくん。うちが余計なことしたばっかりに。やっぱり、きもちわるかったん?」みどりさんはどこまで優しいのでしょうか。
「そうじゃないんだ。ただ、ただ・・・」
 あとは言葉にはなりませんでした。いや、言葉にすべきではないと思いました。みどりさんにもいつかわかってもらえる。たけしくんはいつになく爽やかな気持ちでした。

                            おしまい


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