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【ショートショート】1985年の贋作小話 その76 「宝島」

 船はその舳先を砂浜に乗り上げました。船頭は船を後退させないように、スクリューを緩やかに回転させたままにしていました。エンジンの音だけが誰もいない島の海岸に響きます。普段は話し好きの船頭でしたが、今日は慣例に従って港を出てから一言も口をきいていません。三十分の航海のあいだ、私と親父と船頭はただただ無言のまま冷たい風の音だけを聴いていました。
 船頭が梯子を砂浜におろしました。毛布にくるまって小さくなっていた親父はそれを脱ぎ捨てると、かじかんだ頬を緩ませました。
「そんな顔するなて。みんなやってることだし、遅かったくらいじゃ」
 私がどんな顔をしていたのかは自分ではわかりません。覚悟は決めていたものの、やりきれない思いが顔に出ていたのかもしれません。私はまだ迷っていたのでした。その証拠に、私の懐には親父に渡すべきかどうか迷っているものを忍ばせていました。もし親父の覚悟がくじけてしまったときには、これで知らせてほしい。発煙筒を焚けば村の漁港からでも気づくはずです。それを見たら、私は一目散に親父を迎えに行けるのです。
 しかし、それを渡すことは親父の覚悟を疑うことになりはしないか。いや、それはきれいごとで、目に見えて弱っていく親父の面倒をみていく煩わしさを考えると、私はどうしても懐のものを取り出す勇気が出なかったのです。
 親父は梯子に手を掛けると、「じゃあな」と私に声をかけて砂浜に降りて行きました。私も「じゃあ」と声をかけました。親父が砂浜に降り立つと、船頭は容赦なく梯子を引き上げました。そして、スクリューを逆回転させて少し沖に出ると、舵をぐるぐると回転させて全速力で島から遠ざかりました。遠ざかる島の砂浜には、こちらに背を向けて深い森へと入っていく親父の姿が見えました。親父は、いちどもこちらを振り向くことはありませんでした。
 この寒さでは何日ももつことはないでしょう。もうすぐ、あの深い森のどこかで、親父は自然にかえるのです。三日目の夜、私は仕事を終えると漁港に出て突堤の先端から遠い島の影を眺めました。もうそろそろだな、と私は心の中でつぶやきました。そして、懐から発煙筒を取り出し、堤防のコンクリートにこすりつけると沖に向かって思い切り放り投げました。赤い炎は凪いだ水の上で立ち昇る煙も赤く染めました。赤い煙の向こう側で、島は赤く燃え立つように見えました。俺だっていずれあそこに行くことになるんだ。そう考えることだけが、唯一私を赦してくれそうに思いました。

                           おしまい

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