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25歳の私の現在地。

24歳になるまでに、と必死に言葉を綴ってから、もう1年以上経つ。あのときの我武者羅な熱量と、張り詰めるほどの繊細さはどこに行ったのか。1年経って今、わたしはとても穏やかに、のんびりと海を眺めている。ぼけーっとしちゃって、宙に浮いている感じ。かつて、もうこれ以上ないというほど壮大に、自分の人生というものを刻んだつもりでいたのに、あんなの遠い昔でちっぽけなことに思えてしまう。きっと、刺激的な瞬間も、愛おしい時間も、こんなふうに毎年更新され続けていくのだろう。

例にもれず、この1年も本当にいろんなことがあった。総括すれば、「ともに生きること」と、「自分の乗りこなし方」の探究。あんなにも自分が熱中して、没頭したもの、ずっと探してやっと見つけたと思ったものを、手放し、身の回りのことにもNOを示し始めたことが一番大きな変化。

2022年は、これまでの自分の在り方、人とのかかわり方、物事の向き合い方をアップデートさせたような年だった。それは、憑依・没頭から、自我の芽生えという移行。まとめてしまえば簡単で、人間の基本的な発達プロセスだなと、今振り返ってみると思える。無欲で、反抗期もなく、自分よりも、他者と社会への視点が圧倒的にメインだった私が、自分の存在を問い直し、他者と対峙し、交わっていく、思春期のような状態なのかもしれない。

思い返してみれば、昔から、自分の在り方も、人とのかかわり方も、物事の向き合い方も全て一環していた。出会う人や出会う物事に、まずは一旦憑依したかのように没頭して、のみ込まれて行く。自己意識も自我も極端に少ないから、自分で主導権を握ることもなく、境界線はどんどん曖昧になる。感受性というものをフルに使って、全て受け取る、感じる。そんなことをひたすらやっていた。

ただ、その只中では没頭しているけど、そこから離れた途端、全て自分の世界から消えて、分析と思考が高速スピードで回転し出す。あれだけ没頭してたのに、自分自身という存在は乖離している。きっとわたしは、感受性も強いけど、それと同じくらい思考のエネルギーも強い。感情や物事を、構造的に理解したいし、体系化したいと思っている。そのせいですぐに自分が乖離してしまう。

ここ2年は特に、感性と思考がどちらも暴走状態でフル稼働している。事象や物事に関しては、感情が優位で、のめり込みやすく、他者に対しては、分析と思考が強まり、いつもどこかに自分と一線を引くシニカルさがあった。今までは、そんな自分の特性を認識しているからこそ、誰かや何かに出会うことは好きでも、深くかかわることは、なるべく距離を置いていた。そんな自分が通用しなくなった。

それはやっぱり「 We are Buddies 」と「れもんハウス」この2つと自分の人生が交わってしまったから。仕事と住居というカテゴリーに分類するには違和感があるほど、わたしを形成する全てになっていたと思う。

We are Buddies の活動では、1対1の関係性構築を、とことん探究しまくった。「自分も大事に、相手も大事に」して、フラットであるということは、自由でお互いハッピーなだけではなく、ときに勇気や覚悟が必要なこともある。お互いの些細な感情の動きに敏感になり、感謝の気持ちもほんの僅かな違和感も、言葉にして伝える。相手の状況や背景を想像しながらも、対話を続ける。相互に作用と変容を繰り返しながら、お互いの人生を差し出し合っていく。これは、どこかの親子のためでも、大人バディのためでも、ましてや社会のためでもなく、まずは私自身の修行であり、自分の大きなテーマだったんだなと、思う。出会う人、これまで出会ってきた人、いつもそばにいてくれる人と、わたしを取り巻く全ての人との、コミュニケーションの取り方、自分のスタンスが変わり、伝えること、さらけ出すこと、WABと出会ったことにより、自分の関係性構築がまるっとアップデートされた。特に2022年は、コーディネーターという立場で、他者と他者の関係性に伴走することに取り組んだ。2人の関係に踏み込んでみたり、じっと様子をうかがってみたり、ひとりひとり個別に話を聞いたり、対話の場をセッティングしたり。もちろん、日々迷うし悩むし、関係性構築に正解も終わりもないという体感は、自分自身に刻まれている気がする。

れもんハウスは、「あなたでアルこと ともにイルこと」がコンセプトの、みんなのお家。しんどい人も、元気な人も、大人も、子どもも、丸裸の人間として、そこにいる。抱えていたものをほぐしたり、さらけ出したり、立ち止まったり、人生を紡ぎ直したり、一歩踏み出してみたり。自分を知っていく過程で、人と共にいる。そんな場で暮らすということは、やっぱりこれもまた修行の連続。自分自身がありのままでいること。自分にとって、相手にとって、この場にとって、何がベストかを考え続けること。この場で起こる化学反応を味わって、想像して、サポートしていくこと。なにか起きても、起きなくても、日常のベースに対話がなければ、すぐにすれ違ってしまう。「みんなで子育て」や「ともに暮らす」は綺麗事だったのではないかと錯覚するくらい、カオスな夜もたくさんあった。これまで心の準備ができていないと苦手意識があった福祉(とくに社会的養護や児童福祉)も当たり前に日々の生活の延長線上にあって、制度に悩まされたり、なかには緊急対応に明け暮れた日もあった。


この2つのプロジェクトが交ざり合って連動して、私の毎日があった。仕事とプライベートが一体化というか、これが全てだった。没頭して、同化して、自分自身を保てなくなって、8月末、私はそのどちらからも一斉に距離を置いた。たった10日間の夏休みだったけど、私にとってはとてつもなく大きなこと。本当の意味で、自分と向き合い始めたんだと思う。

夏休み前までは、その時もやりたいことしかやっていなかったけれど、そんな自分に、自らの心地よさを優先させる許可が出せていなかった。誰もが通るべき道を自分だけショートカットしているんじゃないか、とか、ただ周りに恵まれているだけで自分は全然足りない、とか。WABは愛梨さん、れもんハウスは琴子さんがやっているのであり、自分は空っぽでただ居座っているだけ、とかも心のどこかで思っていた気がする。とにかく、もう頭も心もぐちゃぐちゃで、ハイスピードな毎日のなか、ずっと焦っていた。

他者優位の視点が行き過ぎて、自己犠牲に片足を突っ込んでいた私に「自分の生命を自分のものだと思うな」というメッセージが突きつけられた。ケアの視点を持ったり、休んだり、楽しみを増やしたり、など、誰かにアドバイスすることを、自分にも許可を出す。自分に許可を出せないなんて、自意識が強くて、エゴだということ。頭で理解してから実践するのも大変だったけど、これをきっかけに少しはバイアスが解けた気がする。

そこからまた、見える世界も、生き心地も、まるで変わった。これまでは目の前に果実があるのに、そこには手を伸ばさず、あえて過酷な道を選択するような刺激中毒だったけど、今は自分にも立ち止まって果実を眺めたり、味わうという選択が出来るのだと知った。NOを言ったり、距離を置いても、大事なものを失うことはないし、むしろ、相手や物事とよりフラットでるために大事なこと。

WABも、れもんハウスも、自分の心や感性があってこそ。心身が健やかな状態でいることで、目の前の人やひとつひとつの物事に100%のエネルギーを注ぐことができる。追われているものがないから、他のアイデアや出来ることが広がっていく。相手の背景や未来について、想像し、ともに描くことへの解像度があがる。楽しいことも、誰かのSOSも、「今この瞬間」に応えられる余白がある。

ご飯をつくったり、ランニングをしたり、丁寧で豊かな暮らしをして、Well-beingを保つこと。これだけでも十分だけど、安心安全が整うと欲が出てくる。もっと何かやりたい、という思いがまたフツフツと。

きっと何かできるはず、という自己への期待と、まだ何もみつかっていないという一抹の不安。もう誰かの用意したフィールドにはいられないし、乗っかったり、サポートじゃ満足できなくなってくる。ただ流れに身を任せているだけでは、刺激はもう降ってこない。青臭くて、身の程知らずかもしれない。だけど、自分の人生は自分で引き受けていくしかない。

わたしだって自分の人生の手綱を握れるはずだと自覚して、自我が強くなってきたけれど、それを振りかざすのでは本末転倒。「自分も大事に、相手も大事に」「他者と共に生きる」って本当に難しい。自分が強くなってきたら、無駄に反発したり、相手を傷つけちゃったりする。パワーバランスも、取り込まれることもなく、自分の色と相手の色を混ぜ合わせて、融合していく感覚を探っていきたい。焦らず、目の前のことを一つ一つ丁寧に。きっと、これからもわたしは、悩むことも立ち止まることも辞められない。こんなに不器用で生きづらいのに、なぜか吸い寄せられるみたいに、エネルギー量の高い人や物事がわたしの周りにはいつもある。もうこれは仕方がないんだな。受け取って、引き受けて、立ち止まって、周りに助けてもらって、自分も大事に相手も大事に、共に生きることを、これからも諦めたくない。


2022.12.23.1年の振り返り

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