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運動神経が悪いと仕事ができない理由 運動神経が悪いということ Vol.46

今日はスポーツの日。もともと10月10日に固定されてきたこの祝日の呼び名は、体育の日だった。今年から、国体こと国民体育大会も国民スポーツ大会に改称され、国スポなる略称を目にするようになった。数々のトラウマが相まって、体育という言葉に良い印象を抱いてこなかった人間としては喜ばしい反面、なかば諦めていることがある。体育会という言葉や概念、これが"スポーツ会"に改まる日は、たぶん来ないのではないか。

私の勤め先にも体育会出身の方々が数多くいるが、押し並べて優秀だ。アメフト部のQBや野球部のエースという経歴を持つ人はそれぞれ要職に上り詰めていて、「ずっと花形」のような人生を歩む姿は素直に羨ましい。チームワーク、瞬時の判断、勝負勘。仕事も体育の延長なのだとしたら、私の悪戦苦闘は必然だった。

私は中学時代は陸上部だったとはいえ、友達付き合いの一環のようなもので、競技をかじった程度の感覚しかない。運動部に属する人が体育会と呼ばれるようになるのは、もっと年齢を重ね、本格的に取り組むようになってからだろう。その意義は、単なる体力や技術の習得にとどまらない。新入りも、数年後には古株になる。後輩が先輩となっていく過程で、フォロワーとリーダーの然るべき行動を両方とも学べるのだから、彼らの多くが出世するのは偶然ではないのだ。

陸上部に属した3年間、リレーのメンバーに選ばれるチャンスは一度として無かった。陸上競技のようにタイムという明確な指標があればまだしも、球技などで突出した力量を示せる人は、おそらくそう多くはいないだろう。「五十歩百歩」の集団において、レギュラーとして選抜されるためにはどうすればよいか。それを突き詰め、例えば監督の心象を良くするような立ち居振る舞いを身につける。こんな経験も、きっと仕事には活かされるはずだ。

大学の頃は、体育会の同級生たちを遠巻きに眺め、いつも疑問を抱いていた。部活に重きを置き、教室であまり見かけない彼らが、なぜそれなりに単位を取得できているのか。よそのゼミにはまったく出席しないつわ者もいたようだが、それでも卒業できるのはなぜなのか。私のような学生が持ち合わせない「奥の手」も、世の中を渡っていくうえでは力になるのだろう。

スポーツの日の今日、私は休日出勤に甘んじた。いつもより空いている通勤電車の隅で、いつもどおり下を向いている。運動神経が悪く、体育が苦痛でならなかった子どもは、まったく仕事のできない中年になってしまった。能の無い者、やる気の無い者、棲む世界の違う者、皆お断り。偏見かもしれないし、思い込みだったかもしれないが、体育会という言葉や概念からそんな排他性や閉鎖性を察知してきた私は、フォロワーとリーダーの然るべき行動も、集団において選ばれるための知恵も、ここぞというときに使える奥の手も、すべてを学び損ねたのだ。


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