仕事と恋愛が二大テーマの国
わが国で特に重んじられていることには、2つあると思う。何をおいても、一所懸命に取り組むべき営み。充実や、幸せの象徴。たとえ非行に走った過去があっても、それで成功すれば一人前。学業など振るわなくても、それが実れば素敵な青春。人としての価値をはかる物差しともなるのが、仕事と恋愛ではないか。10月といえばテレビの改編期だが、キャリアウーマンの半生に、弱視のヒロインとヤンキー青年の出会いなど、ドラマの主流も相変わらずだ。仕事と恋愛は、日本人にとって人生の二大テーマであるらしい。
一方はできず、もう一方は経験すらない。恋愛を知らぬまま青年期が過ぎ去り、仕事で鳴かず飛ばずの中年になった私は、言わば二大テーマの落伍者だ。「そんなこと、隠しといたほうがええよ」恋愛経験が無いと職場の酒席で口外したとき、同僚に言われたのを憶えている。別の同僚には、「いい歳した独り身に、まともな奴はおらん」と、私のそばで聞こえよがしに囁やかれた。出世できない人間は、イタい。童貞のままの男は、キモい。仕事と恋愛にはいくつかの共通点があるように思うが、その一つは、弱者に冷酷なことではないか。
性別や障がい、コンプライアンスや人権への注意が高まってきた世間では、「護られる層」も徐々に拡大しつつある。うがった見方をすれば、人の悪意とは、「この相手に加虐すれば自分が損をする」という意識が植え付けられたとき、ようやく自制されるものなのかもしれない。それでも後を絶たないのが暴言やハラスメントで、加虐は人間の悲しい本能なのだとしたら、私たちは無意識のうちにそのターゲットを探しているのだろう。仕事のできないヤツ、モテないヤツなら、いくら蔑んでも貶めても損をしない。私のような存在は、規制が強まった時代にあってなお庇護の範疇に無く、「加虐してよい」恰好のターゲットだと認定されてしまうのだ。
二大テーマに対しては、かねがね抱いてきた疑問と不満がある。なぜ世間では、仕事と恋愛になると、人間の「偏差」が考慮されないのかということだ。学力や運動神経だけでなく、ITや株式投資の知識に至るまで、私たちの能力や関心など千差万別で、ばらつきがあって当たり前のはずだ。試験を受けても作品を創ってもピンからキリまでの人間が、仕事にかぎって等しく優秀などということがあるだろうか。どんな趣味や文化でも好みが分かれるのに、恋愛だけは揃って夢中になるはずもない。ひところ、どこかの政府が「一億総活躍社会」などという詭弁も甚だしいスローガンを打ち出していたが、仕事も恋愛も、努力と意識次第で万人に成功の可能性がある、そんな幻想が真理であるかのように語られる世間が、私には生きづらい。
(初出:マガジン「運動神経が悪いということ」 Vol.10 , 2021年10月9日)