「みんな」から漏れる私 運動神経が悪いということ Vol.18
「みんな」という言葉をやたらと使う人には、注意するようにしている。こういう人たちの手にかかれば、身の周りのせいぜい4・5人の意見でも、「絶対的な総意」になる。「みんな」が好きな割に公平ではない人たちは、実のところ確信が無くて、罪滅ぼしや責任逃れのつもりで付言したくなるのだろうか。そう思うのは、そう言っているのは、「自分だけではない」と。
先日は、職場のハンガーラックにマスクをかけると、同僚から「共用のスペースなのでやめてください、みんな気にしてます」とたしなめられた。なるほど、「みんな」か。不健康な身体のため小一時間ほど歩いて通勤する日は汗ばんだマスクを乾かすことがあり、いつも自分の上着の内側に収め、人様の衣服には触れないよう気を遣っていたのだが。昨今は「いつまで」の疑問も高まってきたマスク生活だが、こんな風土では、外して過ごすには相当な勇気が求められそうだ。
このところ母は、もともと住んでいた別の住まいと行き来しているため、新居には不在の日も多い。数日前も一人で帰宅すると、ご近所さんに呼び止められた。「あんまりお母さんを見かけへんけど、病気でも?みんな心配してるんよ」またぞろ、「みんな」だ。週刊誌の突撃取材のような勢いで何を言うかと思えば、家族を病人扱い。新居の周囲はこの地に長らく暮らす人ばかりで、数日間空ける日もあれば、父親も妻子も無く母子だけで住まう新参者の生活が、さぞかし奇妙に映るのだろう。とはいえ、そのせいで何かご迷惑をかけたとでもいうのだろうか。
集団と群れること、同調することが苦手な私は、よく「みんな」から漏れてきた。「不安定さと蔑みがあいまったとき、社会的弱者への同情や共感ではなく激しい敵意や憎悪が現れる」。一部で脚光を浴び、元首相をして「ヒトラーを思い起こす」と言わしめた政党について、「希代のポピュリスト」と断じた政治学者の筆は潔よかった。景気が低迷する根本的な原因を国民性に求めた経済ジャーナリストの仮説によれば、懐疑的な関係に基づくビジネスでは、審査や契約を通して膨大なコストが費やされ、閉ざされた商域が拡張しないため、自ずと生産性は上がらないという。今年になってから読んだ本に共通して学んだのは「意地悪」の罪深さで、それは倫理的な面のみならず、どうやら政治経済においても有害らしい。ただ残念なことに、人の世で生きていくかぎり、これからも「みんな」との関わりは断てないのだ。
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