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ノイジーな世間 運動神経が悪いということ Vol.12

年代や環境により、人間の性格にも変遷があるものなのだろうか。私の場合、運動部に属した生涯唯一の時期だった中学の頃は、いまよりはいくらか活発に振る舞っていた記憶がある。球技や器械体操はまるでダメでも走ることだけは得意と思っていたのも、単に人並みより成長期が早かったことによる錯覚だったと気付かされて以来、元来の引っ込み思案に拍車がかかった。そんな性分も、子供の頃は概ね好評だった。親が同席する面談や通信簿の所見欄では、担任の先生から「大人しくて手がかからない」という言葉をよく見聞きした。それが、社会人になったいまはどうだろう。「積極性が足りない」「もっとコミュニケーションを」先輩や上司から、どれほど注意されたてきたことか。年代や環境により、求められること、評価される資質も変わるのだから、人間とは難しい。

先ごろ、積極的であることを尊ぶ社会でトップに立つ人の声が報道された。経団連が、新型コロナ感染拡大対策として政府が呼びかけてきたテレワークなどによる「出勤者数の7割削減」について出した、見直しを求める提言。テレワーク自体は好意的な意見も多く続けるべきだとしつつ、経団連の会員企業は自主的に在宅勤務を活用するが、各企業が一律に実施することは疑問らしい。その見解は、ダブルスタンダードのように、さらには大企業とそれ以外との差別のようにも映る。わざわざご提言いただかなくとも、テレワークなど、たとえ実施したくともできない事業所にはできないものだ。この2年あまりで社会に蓄積された取り組みやノウハウを、無に帰す必要も無い。深く頷いたのは、コメント欄の「大きなお世話」の声だった。

かような大人たちが社会の支配層に君臨する以上、ポスト社会人が模倣するのも無理はない。昨年は、コロナ禍を境に生活の急変に晒された大学生が、大学に学費減額を求める署名活動がさかんだった。あらゆる活動やサービスが制限されたのは実に気の毒であり、心情は理解できる。一方で、気持ちの矛先を「お金の話」に求めるのはお門違いではないか、という想いも同時に抱いた。学費とは、「社会政策的配慮」によって消費税が課せられないように、一般的な消費とは意味合いが異なる。特に私学においては、種々の維持費や先行投資により、母校の歴史や未来への「寄附」という側面も兼ね備えているはずなのだ。コロナの影響で困窮する学生にとっては伝わりづらいだろうが、多くの大学が奨学金の拡充などさまざまな救済措置を講じてきたのも事実である。

学費削減を求める動向を通して、ややもすると世間では、現在の情勢に不平不満を抱く学生が圧倒的多数派で、それに応じない大学は私腹を肥やす悪者のような印象が植え付けられてしまったかもしれない。しかし、各大学が実施する学生の意識調査では、実は平時より出費が嵩んだリモート授業など大学版の「新しい生活様式」について、肯定的な意見のほうが大半を占めていた実例もある。「学校というのは営利企業じゃないし、教師は教育商品を販売しているわけじゃないし、授業は商取引じゃない」とは、内田樹先生のお言葉。難しいかもしれないが、少しでも多くの学生に心得てもらいたい。それとも、このノイジーな社会でサイレントな大人の言葉は聞こえないだろうか。

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